東日天文館(東京・有楽町、毎日新聞の前身・東京日日新聞のビル東日会館内)の東京で初めてのプラネタリウムを広めようと、開館1か月後の1938(昭和13)年に東京日日新聞が全国で募集、翌年2月1日に発表された懸賞歌「星月の歌」の童謡部門で入選となったのは東京・代沢小5年の目崎志眞子さんの詞でした。
歌謡曲部門で入選した北里悦雄さんの詞と同様に4番まであり、
1) 大きな大きなお月さま
ぢっとみてるとお父様の
まるいおかほを思ひ出す
強い良い子になるやうに
遠いお国でおたよりを
わたしに書いているのでせう
2) きれいなきれいな三日月を
見上げる度に母さまの
やさしいまゆを思ひ出す
でんでん太鼓の子守うた
きいて眠った遠い日の
三日月さまよどこにゐる
3) かはいゝかはいゝお星さま
お嫁に行った姉さまの
ちらちらかんざし思ひ出す
織姫様もあのやうな
花嫁すがたで天の河
渡って行かれたことでせう
4)ぽっかり浮かんだ白い雲
お月さんどこかへかくれんぼ
お目めパチパチお星さま
とろりとろりこおねむでせう
坊やもいっしょに、ゆめのくに
おやすみなさい、さやうなら
というものです。この詞も北里さんの歌謡曲と同様、山田耕筰が曲をつけ、飯田ふさ江の歌でレコードとなり、1939(昭和14)年5月にコロンビアレコードから発売されました。
一方、歌謡曲部門で佳作になった東京の小杉重夫さんの詞は古関裕而作曲でミス・コロムビア歌って、同様にレコードとして出されていたのです。
入選発表を報じた同年2月2日付の東京日日新聞には「目崎さんの作品は実にあどけなく、可愛らしさと純真さにあふれている。それに偉い先生達の真似をしないで、オリジナリティがある点に値打ちがあると思います」という審査員、サトウ・八ローの談話が掲載されています。
ところで、「星月の歌」がレコードになった年と同じ1939年の10月には東京日日新聞の飛行機、ニッポン号が世界1周の大飛行記録を成し遂げました。同社はこの快挙とプラネタリウムをおおいにPR。東日会館を真ん中にニッポン号とプラネタリウムを描いたカラー絵葉書=写真、星の会、小川誠治さん提供=として東日天文館などで売っていました。