1936(昭和11)年の2・26事件で株式市場も閉鎖されました。当時の取引所は東京株式取引所など全国に11の取引所がありましたが、一部朝方に取引が行われたのを除き、その後は全部が取引停止になりました。なにしろ首都に戒厳令ですから、当然です。再開はというと、実に広田内閣成立の3月10日。
長期の市場閉鎖には、決済上のテクニカルな事情もあったようです。当時は、現物のほかに短期清算取引、長期清算取引(信用取引)というのもあったそうで、取引停止に伴い、決済日が来たものをどう処理するか、もめたことが、毎日新聞(本社=パレスサイドビル)の前身「東京日日新聞」「大阪見日新聞」でもうかがえます。もちろん、「内乱寸前」だったわけですから、市場をへたに開けば暴落で大混乱必至という心配が、取引停止が長期にわたった最大に理由です。
紙面を追うと、3月3日の経済面に日銀の深井英五総裁の談話が大きく載っています=写真㊦。「今回の事変――金融界への影響 憂慮の要なし」と見出しで謳い、「一般銀行は手元を著しく潤沢にした」など、資金繰りに万全を期していることを強調しています。なにやら、さる大事故で「直ちに影響はない」と言った政府高官を思い出したりして......。
12月25日の当ブログで紹介した馬場鍈一新蔵相の積極財政を示唆する談話も、市場への懸命のシグナルだったのでしょう。
そして取引再開を報じた11日朝刊。「投機株、高配株激落」の見出しです=写真㊤。「激落」とは、凄い表現ですね。主要な株の市場休止前との比較表が載っていて、当時主力の繊維株では鐘紡が225円50銭⇒207円、帝人72円20銭⇒66円、他には日産73円50銭⇒67円50銭、東電63円70銭⇒58円といった具合。その中で「国防充実の好感から一部軍需株」は買われ、日石が57円70銭⇒57円50銭とほぼ横ばいだったのが目立ちます。
株式市場は、時に時代を先取りするもの。後講釈ですが、この日の相場は近い将来の暗い結末を予感させるものだったと言えるかもしれません。