【2013年1月29日】のアーカイブ

 今月から始まったNHKの大河ドラマ「八重の桜」がまずまずの高視聴率を上げています。会津藩士、山本権八の娘として生まれ、気丈な性格で会津戊辰戦争では会津・鶴ヶ城に500人の女たちと立てこもり、銃を手にして戦い、「会津のジャンヌダルク」とか、男勝りでもあったということから「ハンサム・ウーマン」などと呼ばれた山本八重の生涯を描いたものです。

 八重はのちに同志社大学の前身、同志社英学校を開校し、福沢諭吉、森有礼らとともに明治六大教育家と称えられている新島襄と結婚し、新島八重となり、同志社の運営にも助言をしています。

 夫の新島襄ですが、天保14(1843)年2月12日に、現在のパレスサイドビル近くの神田錦町にあった上州安中藩板倉家屋敷で生まれたのです。

 幼名は「七五三太(しめた)」といいますが、女の子が4人続いた後に初めて生まれた男の子で、祖父が喜んで「しめた」と叫んだことから名づけられたというエピソードが残っています。元服後、アメリカにあこがれ、キリスト教にも興味を持ったことから函館港から米船で密出国し、船長に「Joe(ジョー)と呼ばれていたため以後その名を使い始め「襄」を名乗るようになったといわれています。

 襄の生誕百年のために、昭和40(1965)年神田錦町の学士会館脇に「新島襄先生生誕地記念之碑」が立てられました。碑の解説には、米国に渡航してキリスト教文化の根本を体得したことの後に「母国日本の隆盛をはかるためには、単に法律、政治、経済の改革のみに達せられるものではなく、人民の一人一人が『知識あり品位あり自ら立ち、自ら治め』うるものであり『良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)』となることによってその目的を達しうるものであることを痛感せられた」などと記されています。

 新島襄は明治8(1875)年、京都に同志社英学校を開校します。明治13(1880)年には、生徒が予定より少なかった明治11年9月yaeほん.png入学生と同12年1月入学生のクラスを合併しようという動きが学校側にありました。これを知った生徒たちはストライキを起こすなど大騒ぎとなりました。頭を痛めた襄は明治13年4月13日の朝の礼拝で生徒たちの前に立ち「これはもともと学校の誠意が諸君に通じなかったから起こったので、教員の罪でも諸君の罪でもない。校長たる不肖の罪である。校長はただいまその罪人を罰する」と言って、持っていたステッキで左手を何度も打ったのです。あまりの強さにステッキは折れてしまったのですが、生徒たちは全員頭を下げたばかりでなく、襄の手にすがり、袖を引いて打つのをやめさせたのです。これが有名な「自責の杖事件」です。

襄の手は紫色にはれ上がったのですが、八重はその左手を水につけさせ、一晩中水を取り替えては冷やし続けたといいます、また、折れた杖は生徒たちが拾って十字架に組んで、のちに八重のもとに届けたという話もあります。

新島襄と八重については同志社大学出身のノンフィクション作家、保阪正康さんが昨年1月29日号から9月号のサンデー毎日で連載し、そのあと「八重と新島襄」というタイトルの単行本(税別1500円)として毎日新聞社から出版されています。

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