【2012年12月】のアーカイブ

 昨日"予告"しましたが、仕事納めの28日、パレスサイドビル西側正面玄関の受付カウンターに鏡餅をお供えしました。

 せっかくですから、鏡餅の由来をおさらいしてみました。元々お米は日本の農業でも特別な存在で、新嘗祭に代表されるように、収穫感謝の儀式などは古くからおこなわれていたと思われますが、日本鏡餅組合ホームページの国立歴史民族博物館・新谷尚紀教授の解説(http://www.kagamimochi.jp/saguru/page2-3.html)によると、紫式部の『源氏物語』に、宮中の正月行事で、「餅鏡(鏡餅)さへ取りよせて......祝い事どもして」という記述があるそうで、平安時代から、かなり定着していたようです。また、Wikipediaでは「現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降」と書かれています。お正月は死者や先祖の霊が訪れるとの信仰や、漠然とした新しい年の良運を神様が持ってくるといった思いなどが、いつしか鏡餅の伝統に収斂していったのでしょう。新谷教授によると、丸い形は人の魂(心臓)を模したものといわれ、昔の鏡が円形だったことから「鏡餅」と呼ばれるようになったそうです。

 鏡開きは土地により違う場合がありますが、松の内(1月7日まで)が明けた後の1月11日に行うのが一般的。鏡餅には神様の霊力が宿っているのですから、新しい生命力をいただくため、食べてこその鏡餅というわけです。

 日本鏡餅組合は、「上下一体パック鏡餅」を製造するメーカー1972年に設立した組織で、「鏡餅」の普及、特に、「伝統的なスタイルを継承しながら現代の生活様式にマッチした新しい形の鏡餅をお届けする」のが目的とか。今回パレスサイドビルに設置したものも、2段重ねの上下を一体のパックにし、中には小分けにした切り餅が入っていて、「鏡開き」後も美味しい餅をそのまま頂ける"今風"です。考えてみれば、お正月をはじめ特別な時しかなかったお餅が1年中、いつでも食べられる時代です。子供の頃、つきたてののし餅がお米屋さんから届くと、柔らかくてすぐには切らず、1~2日して適度に固くなりかけたところで一生懸命切った日を思い出します。布巾を当てても包丁の背を押す左手が痛くなるまで頑張ったのも、ご褒美に切れ端を正月より一足早く食べたい一心でした。鏡開きで、固くひび割れた餅のカビを一生懸命ナイフや包丁で削り取り、水につけて柔らかくしてお汁粉などで食べたことが懐かしく思い出されます。来年、我が家はお餅をちゃんと重ねた鏡餅にしようかと思います。

 パレスサイドビルは12月30日(日)~1月3日(木)は通常の休日と同様に、東西の玄関、地下鉄改札口からのエスカレーターの入り口は閉鎖させていただきます(29日以降の個別のお店の営業は、それぞれご確認ください)。

 それでは、よいお年をお迎えください。

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 いろいろあった平成24(2012)年も残り少なくなってきました。街には松飾りを売る店が出るなどして年越しの準備も着々と進んでいます。東京・竹橋のパレスサイドビルでも年末の大掃除を実施したり、ささやかながら正面玄関に鏡餅をお供えして正月を迎える支度も始めています。

正月にはいい初夢を見て、素晴らしい1年のスタートを切りたいと願っている人も多いでしょう。

縁起のいい初夢といえば「一富士 二鷹 三茄子」ですね。どうしてこのように言われているのか? パレスサイドビルの屋上からもよく見える富士山=写真=は遠くからでも素晴らしく、夢に出てきても縁起がよさそうなのはわかりますが、鷹と茄子はなぜなの、という疑問はよく聞かれます。諸説ありますが、「仇討」のことであるという話もあります。

つまり、「富士」は曽我兄弟の仇討。父親を工藤祐経の殺された曽我五郎、十郎の兄弟が富士の裾野で仇を討ったことから。「鷹」は赤穂浪士の討ち入りで、四十七士の主君浅野内匠頭の家紋が「丸に違い鷹の羽」であることから。そして「茄子」はヘタにイガイガがあることから(一説には産地として)伊賀上野の国を連想して、伊賀越しの仇討。「鍵屋の辻の決闘」ともいわれる仇討ちは寛永11(1634)年11月7日、岡山藩士、渡辺数馬と荒木又右衛門が弟の仇、河合又五郎を伊賀上野で討った事件のことだというのです。

かなりこじつけのようですが、親や子供を殺された犯罪被害者の家族としては、この無念を是非晴したい気持ちから仇討ちを夢にまで見る、というのはよくわかりますね。

縁起のいい初夢には続きがあり「四扇 五煙草 六座頭」となるようです。ここまで来ると仇討ちに結びつけるのはなかなか難しそうです。

そこで、敢えて仇討ちと結びつけると「扇」は末広がりから「八」となり、奥平源八ら一族40人が寛文12(1672)年2月3日に、江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭・戸田七之助の屋敷へ押し入り、父の仇・奥平隼人を討ち取った「浄瑠璃坂の仇討」。「煙草」は煙から火事となり、以前このブログで紹介した享保の大火の以後火除け地となったパレスサイドビル近くの神田錦町の護持院原で起きた「護持院原の敵討」。「座頭」は盲人から連想して、文久6(1861)年4月6日に江戸の肥後藩士で夫の平八を殺された下田田鶴が仇討ちを祈願して長年祈願した盲観音堂。明治4(1871)年4月16日、熊本県玉名市石貫のうつろぎ谷で、田鶴、長男・恒平、弟の島崎真八らが平八の同僚・入佐唯右衛門を討った石貫の仇討――というのはどうでしょう。かなりのこじつけのような気もしますが・・・。

「浄瑠璃坂の仇討」では奥平源八らが火消装束で火事をよそおって討ち入ったり、本懐を遂げた後幕府へ出頭するなど30年後の赤穂浪士の討ち入りの手本となりました。また、赤穂浪士の討ち入り、伊賀越しの仇討ちとともに江戸三大仇討ちとされています。

初夢は仇討ちでなくても、縁起のいいもので正夢にしたいですね。

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  今回の総選挙の大きな争点の一つが原発をどうするかということでした。結果的には「しばらく考えます」という自民党が圧勝しましたが、連立政権を組む公明党との政策合意では「徐々に原発への依存度を低下させる」ということになりました。

 実際に日本で使われている再生可能エネルギーの内訳は、小水力発電が41.3%、太陽光(発電+熱利用)20.9%、風力発電15.7%、地熱(発電+熱利用)14.9%、バイオマス(発電+熱利用)7.1%となっています。そして再生可能エネルギーの自給率は全国平均で3.6%というのが、現在の「実力」です。

 これを都道府県別に見ていくと、トップは大分県の23.4%、2位は富山県16.9%、3位秋田県16.1%です。以下、青森県、鹿児島県、長野県、岩手県などが名を連ねています。一方、自給率の低い都道府県は、当然ながら都市部に集中しています。パレスサイドビルのある東京都は0.3%、大阪府0.5%、埼玉県1.1%、京都府1.2%、福岡県1.3%となっています。

大分や秋田は地熱利用についての研究開発が早くから行われており、その成果が出ているようです。別府や湯布院を抱える大分、乳頭温泉や玉川温泉を抱える秋田などは、豊富な地下熱に恵まれています。

火山国ニッポンは温泉大国であり、地熱大国でもあるわけです。国立公園に指定されているところが多いため、開発に規制がかかりますが、他の再生可能エネルギーに比べて最も安価な開発費ですむのが地熱発電です。これを利用しない手はありません。温泉タマゴに使っているだけではMOTTAINAIですね。全国の温泉地で「地熱発電甲子園」を開催して、その効率性を競ってはいかがですか?

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 1936(昭和11)年の2・26事件を契機に加速した軍国主義。財政面でも、事件が転換点になりました。

 東京日日新聞(毎日新聞の前身)の紙面を追うと、事件が一段落ついて広田弘毅内閣誕生に合わせて「増税」の見出しが連日のように紙面に登場します。岡田内閣の高橋是清蔵相が2・26事件で暗殺されたことの帰結でした。

 高橋と言えば、思いきったリフレ政策、つまりお札をバンバン刷って世界恐慌のデフレから日本経済を脱出させたことで有名ですが、岡田内閣ではデフレ退治の反動で、逆にインフレの恐れが高まったとして緊縮路線を進め、軍事予算の縮小を図りました。これが軍部の反感を買っていたのです。

 広田内閣で蔵相に就いたのは馬場鍈一という人です。大蔵官僚から政界に転じた人ですが、あまり知られていませんね。

 3月6日朝刊は馬場蔵相就任の見通しになったことを受け、「増税は必至 高橋財政の修正不可避」との見出しの記事を掲載し、「四囲の情勢は高橋財政に若干の修正を加へざるを得ぬものがあり」として、外国の軍備拡張、北支の新情勢展開、ソヴィエトの極東政策等に対応するため、財政の膨張は必至で、「財源を増税乃至新税に求める以外公債の増発によらんとするは当然」と論じます=写真㊦。そして、内閣発足を報じた10日朝刊トップ記事では「国費累増は不可避 財政の基礎確立肝要」の活字が躍り、財政拡大を謳った馬場蔵相の談話を伝えています=写真㊤。6日朝刊では、馬場について「勧銀(日本勧業銀行)総裁の地位にあってよく農村の実情を理解し......農民同情者とさへいはれてゐるから現下の疲弊せる農村更生の上には相当程度の予算も獲得出来るものと期待されてゐる」と、農村理解者の一面を紹介しています。

 ちなみに、馬場蔵相は歳出を前年度比34%増、軍事費を同33%増、公債発行を同41%増という大盤振る舞いの37年度予算案を編成したそうです。広田内閣が37年1月に総辞職し、この予算案自体は日の目を見ず、馬場自身もその後、病に倒れて37年末に他界します。」

 いずれにせよ、2・26事件を境に歯止めを失った財政は、中国から太平洋へと戦線が拡大するのに引っ張られて拡大を続け、戦後の超インフレにつながります。

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 アマチュア天文家・小川誠治さんから送られた東京・有楽町にあった東京で最初のプラネタリウム施設、東日天文館の絵葉書第3弾です。

「光冠 コロナ」というタイトルがついた絵葉書は皆既日食が描かれています。月に隠された太陽。周りからは太陽のガス体の大きな光が放射状に延び、黒い影の縁にはプロミネンス(紅炎)と呼ばれる赤い立ち昇る炎も見えます。

 以前紹介した「月世界より見た日食」の絵葉書のように想像で描いたものと違って「光冠 コロナ」はかなりリアルです。というのも、絵葉書の解説にもあるように、東日天文館が完成する約1年半前、昭和11(1936)年6月19日午後に皆既日食があり、北海道で実際に観測、スケッチしたものを元にしているからなのです。

 今年5月21日の金環日食の際は日本中が沸きましたが、昭和11年の皆既日食はそれ以上に大フィーバーだったようです。日本で見られた日食は鳥島での1918年6月9日を除くと、1896年8月9日に北海道で観測されて以来40年ぶりだっただけに、国内は日食観測一色だったようです。

 日本全国で濃いサングラスが飛ぶように売れ、条件が最も良いとされた北海道では観測のために多くの学校が休校にしたり、臨時列車で観測見学に行く学生団体などもありました。また、北海道各地に観測所が作られ、そばには露店が数多く出店。太陽が欠けると整理の警備員が日食の様子を見たさに望遠鏡のほうに駆け寄ったために、警備どころではなくなり大混乱した、という話も残っています。

 当然、マスコミも大々的に報道しました。NHKでは鹿児島から女満別まで全国28か所の放送局からラジオによるリレー中継を敢行。テレビなどの映像がまだない中で、空を見ながら言葉だけで伝えるのはアナウンサーもかなり苦労したようです。

 東京日日新聞、大阪毎日新聞(ともに毎日新聞の前身)も予告をはじめ連日、日食の記事で紙面を埋めました。目を傷めないようにと観測上の注意や空模様に一喜一憂する様子を報じています。当日は「望遠鏡に映る異変の姿!」「白昼光なきこの怪異」などの見出しで北海道などでの観測の様子を伝える一方で、糠雨となった東京で「心なき京浜の空模様」「望遠鏡があくび」といった見出しでアマチュア天文家ががっかりしたという記事を載せています。また、北海道で撮影した写真を自社機で空輸して号外=写真下=も発行しました。19360620gougaizen.png

 この大きな天体イベントがあり、宇宙へのロマンが沸き立っていただけに、東日天文館のプラネタリウム人気も大きくなったのでしょう。

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 パレスサイドビルのクリスマス飾りもあと数日ですが、七面鳥にとって受難の夜が近づいてきました。クリスマスイヴです。七面鳥がそう多く飼育されていない日本では、ニワトリにとって受難のイヴです。

 なぜクリスマスイヴに七面鳥の丸焼が食べられるようになったのでしょうか。これはヨーロッパではなく、アメリカやカナダでの生活慣習からです。キリスト教の感謝祭(Thanksgiving Day)に詰め物をした七面鳥の丸焼きをいつからか食べるようになりました。アメリカやカナダでは感謝祭の日をTurkey Day(七面鳥の日)とも呼ぶようになりました。それが感謝祭だけでなく、クリスマスにもというようになっていきました。

 ちなみにアメリカの象徴である国鳥はハクトウワシです。しかし、独立宣言の起草委員の一人であるベンジャミン・フランクリン(政治家、外交官であり、物理学者)は、死んだ魚を取ったり、野鳥の獲物を横取りするハクトウワシはアメリカの国鳥にふさわしくない、と反対したと伝えられています。勇気と正義こそがアメリカの真髄だと考えてのことでした。そこで国民から愛されている七面鳥を推したといわれています。

 七面鳥はその名の通り、七つの顔を持つ、と言われています。頭部から首にかけて、赤、青、紫などに変色するからです。怒った時、繁殖への欲望が盛んな時などに色の変化が見られるようです。キジ目の最大種で平均して体長は120-30㌢、体重も10㌔くらいは当たり前のようです。胴体は光沢のある黒い羽毛に覆われています。

 そして日本では数の少ない七面鳥の代わりにニワトリがイヴの悲しい主役になりました。命ある動物を食するときは、ぜひ感謝の気持ちで「Merry Christmas!」

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 1936(昭和11)年、竹橋前もバリケードで封鎖された2・26事件。もう少し当時の東京日日新聞(毎日新聞の前身)を繰ってみましょう。

 2・26事件を契機に軍国主義が加速し、翌1937年7月の盧溝橋事件で日中戦争に突入......と破局に向かって突き進みますが、そういう時代だったことを確認させる記事が2・26事件の当時も紙面にあふれています。

 2月29日朝刊は「大部隊の共産軍 山西を席巻の形勢」の見出しで「共匪(共産党軍のこと)の主力が山西に集中されることになれば山西軍のみをもってこれを阻止することは困難」と報じます。ソ連との関係も、「満露紛争事件 実に270件 誠意なき露の態度」(29日夕刊)と緊張激化を伝えています。ちなみに満蒙国境で日ソ両軍が衝突したノモンハン事件は3年後のことです。

 世界大戦への足音も着実に高まっていました。2月29日朝刊は、ロンドン軍縮会議での各国の対立を報じています。この会議は1930年に曲がりなりにも日米英で海軍力削減に合意した軍縮会議に続く「第2次ロンドン軍縮会議」ですが、日本はこの年1月に離脱していて、記事も「日本脱退の軍縮会議 米と仏伊の対立 纏(まと)め役の英の悩み 軸の折れた車の歩み」と、冷ややかな報道ぶり。この後、イタリアも脱退し、この3月下旬に米英仏だけでの合意はしたものの、世界大戦を阻む力にはなりませんでした。

 さらに3月8日朝刊は「欧州政局にまた爆弾」と、凸版白抜きで見出しを取り、「ロカルノ条約破棄 果然・独逸政府通告す」と報じています=写真㊤。非武装地帯へのドイツ軍の進駐を伝えたもので、同日付号外で「戦雲呼ぶライン河畔 仏政府緊急対策会議」と続報を打ちます。受験勉強や世界史の授業を思い出しますね。第1次世界大戦後の平和を担保したヴェルサイユ条約体制の終焉です。前年、日独防共協定を結んでいますから、日本はドイツ支持の論調でした。

 国内でも気になる記事がありました。3月10日朝刊社会面に「大本教総務栗原白嶺 留置場にて自殺す」と大きく出ています=写真㊦。共産主義運動の取り締まりを主眼とした治安維持法が、宗教に適用された最初の事件であり、高橋和巳の「邪宗門」のモチーフはこの事件とされます。大本教の評価はいろいろあるでしょうが、とにかく、戦時体制に向かう大きな流れの一コマといえます。

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 昭和13(1938)年11月、東京・有楽町に東京で最初のプラネタリウムが設置された東日天文館(毎日新聞社の前身、東京日日新聞社のビル、東日会館内)で売られていた5枚組の絵葉書「天界五景」のうち「大彗星」については17日に書きましたが、今回は「月世界より見た日食」です。

 絵葉書はアマチュア天文家、小川誠治さんのコレクションの一つです。タイトルの後ろには「黒円は地球です」と書かれ、「画面に見える月世界の噴火口の多くは直径五、六〇哩を超えるものもあります。(地球の噴火口は最大なものでも直径六、七哩を超えません)」という解説がついています。

 人類が初めて月面に降り立ったのがアメリカのアポロ11号のアームストロング船長で、昭和44(1969)年7月20日のことですから、その30年以上も前に発行されたこの絵葉書はもちろん、月からの風景を想像して描かれたということはわかります。殺伐とした広大な荒野に大きな地割れとクレーターが描かれ、漆黒の空に地球のほか、小さな星もいくつか光り、宇宙への興味をかきたててくれます。

  月から見た日食ということは、地球から見れば月食になります。つまり、月では地球が太陽を隠すのが日食で、地球から見ると地球の影が月に映る月食というわけです。この月から見た絵では日食により地球に隠された太陽がまるで金環食のように見え、ダイヤモンドリングのような光もあります。しかし、多分、月では日食の食の最大時に太陽はこのようには見えないでしょう。というのも、地球は月に比べずっと大きいからです。日食の食の最大時には、地球から見た時の日食とは違い、金環食のようにはならず、地球が完全に太陽を覆って真っ暗となる皆既日食になるわけです。

 いずれにしても、想像で描かれた宇宙のロマンの世界。日本は宇宙航空研究開発機構(JAXA)が2020年前後に有人月面着陸、2030年前後に月面基地建設構想を打ち出しています。2020年には地球での月食が1月11日、6月6日、7月5日、11月30日と4回あり、以降月食は1年に複数回はありますので、その時には月面から見た日食、地球に隠された太陽が想像の絵ではなく実写真でどんな様子なのかわかると思います。ただ、欠ける前後は太陽がもろに当たっているわけで、月面は相当な暑さになっているでしょうね。

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 東京・有楽町にあった毎日新聞社の前身、東京日日新聞社のビル、東日会館の東日天文館に設置された東日本で最初のプラネタリウムのパンフレットを送ってくれたアマチュア天文家、小川誠治さんから今度は天文館みやげとして売られていた絵葉書のコピーが送られてきました。これもまたまた貴重な資料です。

 「天界五景」と題した絵葉書は5枚組で20銭。おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、オリオン座のベテルギtenmonnkannmiyage1.jpgウスで構成する冬の大三角と皆既日食をイメージさせるイラストが描かれた封筒に入れられていました。5枚とも手書きの絵で「極光 オーロラ」「光冠 コロナ」「月世界より見た日食」「月世界から見た地球」「大彗星」とのタイトルがついています。

 このうち「大彗星」は1843(天保14)年2月初めに現れた大彗星を描いたもので「北欧の空に現れて当時の人心を恐怖せしめたもの。尾の長さ六十度周期5百年」という解説がついています。

 絵葉書では北欧で見られたものを絵にしていますが、この大彗星は日本でも観測された記録が残っています。2月下旬には昼間でも簡単に見えるようになり、マイナス6等星以上の明るさで3月中はずっと目立っていましたが、4月になって少しずつ暗くなり、同月20日に観測されて以降見えなくなったということです。

尾は1億5000万㎞と、地球の周りの3750倍、光が届くのに約8分強かかるという想像を絶する流さで、1996年1月に鹿児島県のアマチュア天文家、百武裕司氏が百武彗星を発見するまでは記録上最も彗星の長い尾だったのです。当時の人たちはこの長い尾を引く大彗星に恐れおののき、「最後の審判の日」が差し迫っているのではないか、という話が流布したとの記録も残っています。

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 竹橋・パレスサイドビルの毎日新聞のデータベースで戦前の紙面を眺めながら、前身の東京日日新聞と大阪毎日新聞の2・26事件(1936年=昭和11年)の報道ぶりを見ていますが、大事件があっても、それとは全く関係なく、フツーの事件も起きます。その報道ぶりはなかなか白いです。

 ちょっと驚いたのが、事件発生翌日2月27日の朝刊社会面=写真㊤。「非常警備下の帝都 お濠端一帯の異風景 宴・盛り場の灯は消え」など写真3枚使って大きく報じてはいますが、概ね上3分の1まで。あとは「買収された警官が選挙取締に手心」「電車と貨物自動車衝突五名死傷」などの事件事故に加え、「ふられた恋の恨み 美人女給を惨殺す」なんていう、今ならワードショーが飛びつきそうなネタがしっかり載っています。他にも「湖底に沈む村民にバラ撒く黄金 小河内貯水池」「少女(15)が胃癌で死亡 稀有の実例」「夏の列車の苦熱を一掃 まづ東海道特急に冷風装置」「七十婆さん南米へ 秋田の移民団」など、盛りだくさん。ちなみに列車の冷風装置は、最初は食堂車に限り、「物置、戸棚を改造して凍氷室を作り、相当強力な扇風機で凍氷面を撫で冷風を車内に送る」という"最新兵器"の由。

 ちょうど選抜中等学校野球大会(今のセンバツ高校野球)の出場校選考の時期で、「晴れの出場二十校決定 東日本のホープ早実、桐生中参戦」の活字も見られます(3月4日朝刊)。昨年、大震災でセンバツ実施すべきか否かが話題になったことを思い出します。「こんな時に」か「こんな時だからこそ」か、2・26に際しても同様の葛藤があったのでしょう。

独自の道を行くのが「家庭と趣味」のページ(今の家庭欄)=写真㊥。3月3日朝刊には「近頃喧(かまびす)しい若い男女の自由交際 どふ取扱ふのがよいか」との特集を組んで、3人の識者の見解を紹介しています。その顔ぶれが凄い。東京女子医大の前身の東京女子医学校創設者の医師、教育者の吉岡弥生が「絶対に反対 親達は厳重に監督せよ」、女性運動家で戦後は社会党代議士になる神近市子が「秘密をなくして朗らかに交際させたい」、そしてジャーナリストの菊池寛は「若い男女の自覚まだまだ足りない」と、今では考えられないテーマを大真面目に論じています。

 漫画特集も世相を反映していて結構いけます。当時、毎月第一月曜に「東日漫画」というページがあり、読者の投稿作品を数点ずつ載せていて、3月2日も休載しませんでした。その中で目を引いたのが「行ってお出で」という3コマ漫画で、お母さんが息子を見送る行き先が年取るとともに①中学②大学③職業紹介所と変遷するもの=写真㊦、中央下。なお、次月の4月6日の同ページには電燈会社の集金人になった男が「まさかおれがおれを督促しようとは」とぼやく漫画が載っています。これも就職難を映したものでしょう。

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 東京・竹橋のパレスサイドビル屋上にある毎日神社。毎日新聞社の航空機「ニッポン号」の世界1周飛行の無事を祈願して読者から贈られたお守りを祀って建立されたのですが、ニッポン号が快挙を達成したことから「飛行機が落ちない」から「落ちない」に転じて、「入試で落ちない」「成績が落ちない」とか、「業績が落ちない」ということで、受験生、学生や企業の経営者のお参りも多くなってきました。

 で、その毎日神社がきょう13日から、おみくじを出すことになりました。

 と言っても、スマートフォンの画面上でのバーチャル占いとしてのことです。iフォンでもアンドロイドでもスマホであれば簡単におみくじを引けるのです。

 まず、ダウンロードサイトから「スマ町銀座商店街」というアプリケーションを入手することから始まります。

 このアプリケーションは毎日新聞社が若者向けに漫画でニュースに関心を持ってもらおうと昨年3月から始めたものです。最新のニュースや時事解説、特集など15のコーナーの中から占いコーナーにタッチすると、スマ町の母・松戸菊さんの占いのページがあらわれます。占い師「ののか」さんや「モンゴメリー」さんといったスマ町の登場人物など7つのコーナーの一つに「毎日神社のおみくじ」があるのです。

毎日神社のイラストの前におみくじの筒が出てきて、下にある「おみくじを引く」にタッチすると大吉から凶までの運勢と簡単なご託宣が表示されるという次第です。

神社やお寺のおみくじと違って、おみくじは無料なので何回引いても安心です。もし「凶」が出ても、すぐに引き直せば、いい運勢に変わるかもしれません。「災いを転じて福と為す」にしてください。

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 竹橋を含む皇居一体、日本の中枢をマヒさせた2・26。この事件を毎日新聞の前身の東京日日新聞(1872年=明5年創刊)と大阪毎日新聞(1876年=明9年創刊)がどう伝えたか。その続きです。

 これだけの大事件ですが、関係記事は主に1面、2面、社会面及び経済面に関連記事と、案外あっさりです。もっとも、朝刊が8~14ページ、夕刊が4~8ページと今より少ないので、そこそこの紙面を割いていたとも言えますが......。

 先日紹介した事件と政局の推移は本筋の話で、主に1面で報じられますが、関連するサイド記事を社会面などでいかに読者に「読ませる」か、各紙腕を競ったはずです。

 まず、目を引くのが事件で殉職した5警察官に関する記事。首相官邸で4人、前内務大臣宿舎で1人が亡くなりました。3月1日朝刊1面で第一報が伝えられ、2日朝刊社会面は上3分の1ほどをこの記事で埋め、「首相官邸護衛の任に当たった四警官が岡田さんの奇跡的生存の事実を知ったならば定めし地下に奉公の仕甲斐のあったことを喜ぶであろう」と書きました=写真㊤。5警官には弔慰金が集まり、そのことが「悲壮な警察精神に挙国的な感激高潮」(3日朝刊)などと報じられると、さらに弔慰金が集まる、といった具合で、「遺族へ集る旋風的同情 忽ち三千円」(3日夕刊)、「義金 遂に十万円突破」(8日朝刊)と広がりました。「感激高潮」「旋風的同情」......ウーン、表現がすごい!!

 岡田啓介首相の身代わりになって死亡した義兄の松尾伝蔵大佐も2日朝刊社会面で5警官とともに人となりが詳報され、「剛直、人情に厚く宛(さなが)らの古武士」と賛辞で埋まりました。岡田首相脱出劇も関心を集めたのでしょう。7日朝刊で「岡田首相脱出秘聞 その機略と沈勇 決死三憲兵の殊勲」と見出しが躍り、記事本文は「......『死体安置の間は憲兵に任して貰ひたい』と提言し、占拠部隊を室外に出し、数分間の隙に岡田首相を弔問客の一人のやうに変装(モーニング、マスク、ロイド眼鏡)せしめたものであった......機を捉へて五重の警戒陣を隼のごとく突破し......」と、どこか講談調です=写真㊦㊧

 もうひとつ、「美談」として大きく報じられたのが警視庁の交換手。桜田門にある警視庁は反乱軍支配地域になったため、神田錦町警察署に「非常警備司令部」を設け、一般の治安維持に当たりました。警察の電話の中枢機能は移せませんから、警視庁でやるしかないというわけで、「不安な空気の中で電話線を死守 警視庁の交換嬢」(5日朝刊=写真㊦㊨)となりました。「嬢」とはレトロな響きですが、反乱軍の監視下、「はい」以外に言葉を発してはならないという命令を受けながら、事件から32時間にわたり業務を続けたことが写真付きで大きく報じられています。

 

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  東日本で最初、日本で2番目のプラネタリウムは、昭和13(1938)年11月に毎日新聞社の前身、東京日日新聞社が建てた有楽町の東日会館内の東日天文館に設置されたことを先月このコーナーでお伝えしましたが、これを見たアマチュア天文家、小川誠治さんから開館時に発行されたパンフレットのコピーが送られてきました。歴史的に見ても天文ファンにとっても大変貴重な資料といえるようです。

 小川さんはかつて渋谷にあった五島プラネタリウムでボランティアとして活動したほか、オーロラの写真を撮るなどしたり、古い天文資料の収集・研究も行っていて、国立天文台にもない貴重な資料を保存、同天文台のアーカイブ室にも提供しています。

 パンフレットはB5判の二つ折りで、表紙は「十一月の天文館」というタイトルに、特集の「アンドロメダの大星雲」の文字があり、アンドロメダ大星雲の大きな写真などを掲載しています。中面の見開きにはトップに「星の散兵線をみる」と、軍国主義の時代らしい大見出しが躍っています。11月の星として宵(よい)の明星と暁(あかつき)の明星である金星の見え方やアンドロメダ大星雲、カシオペア座とペルセウス座の中間にある双子の山塊星団、ヘルクレス座にある球状星団、牡牛座のスバル、天の川と白鳥座の十字、オリオン座の夜空での展開などが記されています。

 そしてこの年は今年と同じように天体ショーの当たり年だったようで、開館してすぐの11月8日にはその年2回目の月食、22日には部分日食があり、その解説も詳しく記載されています。プラネタリウム(天像儀)でその様子も投影されたようです。

 で、東日天文館の入場料はというと、大人50銭、子供25銭でした。そばが10銭、アンパン5銭、山手線の初乗り5銭、鉛筆3~5銭、教員の初任給が50円という時代で、現在の物価に換算するとプラネタリウムの入場料は1,500~2,000円と、やや高めでした。ただ、軍人、学生、生徒、児童には団体の特別割引が人数に応じてあり、最大で4割引という大幅なディスカウントがありました。軍人はそれだけ優遇されていたわけですが、星を見て場所や時刻がわかるようにと、プラネタリウムが外地に赴く軍人の教育にも多く使われていたことが読み取れます。

東日天文館パンフレット 006 (3).jpg

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 先日、2・26事件の竹橋の写真を紹介しました。その毎日新聞の当時の紙面をみていると、いろいろ面白いです。毎日新聞は東京日日新聞(1872年=明5年創刊)と大阪毎日新聞(1876年=明9年創刊)が前身で、両紙は1911(明44)年に合併しましたが、題号を毎日新聞に統一したのは1943(昭18)年なので、2・26事件当時は別の新聞でした。

 まず、事件の筋を追うと、26日に号外で発生を知らせ、27日朝刊で「首相、内府(内務大臣)、教育総監即死 侍従長重症、蔵相負傷」と報じました=写真㊤。その後、岡田啓介首相は義弟の松尾大佐が身代わりになって無事、高橋是清蔵相は死亡が確認されたのは、ご存知の通りです。

 反乱の鎮圧は29日。この日未明に討伐命令が出され、チラシがまかれ、「軍旗に手向かふな」のアドバルーンが挙げられ、ラジオで「兵に告ぐ」と題し「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである」に始まる勧告が放送され、首謀した将校らは逮捕。反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰りました。

 その後は、内閣総辞職を受けた組閣をめぐる動きが紙面を連日埋めます。元老・西園寺公望が後継首相の推薦にあたりますが、「園公」の大活字で動静を大きく報じています。最初に白羽の矢を立てた近衛文麿に拝辞(辞退)され(3月4日)、広田弘毅外相が組閣することになるのですが、5日に「内閣組織の大命 広田外相に降下」と号外が書いてからが難産。いったん、吉田茂外相らが固まり、「内閣根幹成る」(3月6日朝刊)と報じられますが、陸軍側の横やりのため7日朝刊で「広田内閣流産に瀕す」、7日夕刊では「諸般の情勢一転し」と、内務大臣が川崎卓吉から松平駐英大使に差し替え報道。「組閣蒔き直し 陸軍側の主張を酌み」と閣僚の見直しが本格化。以後「組閣達成へ邁進」(8日号外)、「組閣工作また持越し」(9日朝刊)ともめた挙句、9日号外で「広田内閣成る」と名簿付きで報じられ、10日朝刊で「難航五日 広田内閣成立」となりました=写真㊦。最大の焦点だった外相は広田首相の兼務、内務大臣潮恵之輔でした。

 陸軍が陸軍大臣を出さないことを「人質」にゴネたという歴史を知っているから、なるほどということですが、日々紙面を追いながら歴史的事件を振り返るのは、いろんな発見もあります。

 毎日新聞は過去の紙面、残っている写真をデータベース化しています。写真は「毎日フォトバンク」(https://photobank.mainichi.co.jp/php/KK_search.php)から検索でき、紙面はパレスサイドビルの毎日新聞社で必要な紙面をコピーすることも可能です(有料)。

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 東京・竹橋のパレスサイドビルすぐ北東側に位置する神田錦町一帯は江戸時代に護持院原と呼ばれ火除地として広い野原になっており、2度の敵討ちがあったことは以前お伝えしたかと思いますが、明治時代に入ると、東京大学予備門、開成学校(現東京大学)、学習院、東京法学校(現法政大学)、英吉利(イギリス)法律学校(現中央大学)などが出来、学問の香り高い一大文教地区になっていました。現在、学士会館=写真=や錦城学園高校、正則学園高校があるのは、その名残といえるでしょう。

 そもそも錦町というのはこの地区に武家屋敷が並び、旗本の一色家の屋敷が2軒あったことから二色となり、これが転じて錦町と呼ぶようになったといわれています。また、護持院に錦のように美しい虫を祀った弁天堂があったとか、住人が京都の錦小路にあやかって命名したという説もあります。

 明治5(1872)年に神田錦町という町名が正式に誕生したのですが、明治44(1911)年にはただの錦町に変わります。しかし、昭和22(1947)年に麹町区と神田区が千代田区となり、旧神田区の町名には神田という名前を残すことにしたため神田錦町となったようです。

 ところで、錦町とつく地名は全国の各都市で多くみられます。上記の京都の錦小路にあやかったのか、錦のように美しい街にしたいという願望から命名されたのか分かりませんが、「にしきちょう」と読む地名は数えただけでも51市町に、「にしきまち」と呼ぶ地名が43市町にあります。中でも北海道は釧路市、小樽市、北見市、網走市、留萌市、苫小牧市、伊達市、富良野市、美瑛町、上富良野町など両方の呼び名を合わせて23の市町で錦町という地名があるのです。北海道ではただ「錦町」だけでなく○○市錦町、とか○○町錦町とはっきりしていかないと、とんでもない所に行ってしまいそうでご注意を。ただ、神田錦町となると東京だけにしかありません。

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 突然ですが、2・26事件です。当ブログで、明治時代に近衛兵が反乱を起こした「竹橋事件」について何度か書きましたが、昭和最大の血なまぐさい事件の際の竹橋の写真があります。

 毎日新聞社が保管する貴重な記録の1枚です=写真㊤。撮影日は1936年2月26日。反乱部隊なのか、鎮圧部隊なのか。「昭和維新」を唱えた反乱部隊が襲撃した首相官邸、高橋是清蔵相邸などの標的は概ね皇居の西側で、赤坂の山王ホテルや三宅坂の陸軍大臣官邸を拠点に日比谷から永田町一帯を占拠。一方、27日に戒厳令が発せられて皇居東側の陸軍会館(現在の九段会館=昨年の大震災で閉鎖)に戒厳司令部が置かれています=写真㊦。竹橋に反乱部隊がいつの時点まで居たのか、あるいは居なかったのかの......。

 そのあたりの事情を推し量るのに助けになる記述を2つみつけました。 まず、個人のブログで恐縮ですが、生々しいので、引用します。

 「私は西神田小学校の5年生だった。雪の日だった。教室には何人も居なかった。居なかったと言うより来なかったのだ。何でも総理大臣が殺されたと誰かが言った。......休校と言われて家に......帰ると、大渕菓子屋の兄さんが【近衛兵が土嚢を積み上げて宮城を守っている。見に行かないか】と誘われ竹橋へ行った。土嚢の上には機関銃が据え付けられていて、兵士に帰るよう怒鳴られた。殺気立って居た。夕方には駿河台の方にも軍隊がやって来て戦いが始まるかもしれないからコンクリートのビルの裏に隠れるような事も言われた......http://blog.goo.ne.jp/goo2023/e/68944fdba831c689b405f1fece91804b

 この記述だと、宮城(皇居)を守る鎮圧部隊のように思われます。

 もう一つは鹿島建設のホームページに、2・26事件の「こぼれ話」として、山種証券創業者の山崎種二のことが書かれています。

 「(山崎種二は)226日朝7時過ぎに新築したばかりの麹町三番町の自宅で事件を知った。......車で出社する途中、竹橋近辺で2人の将校に頼まれて赤坂の連隊まで乗せることとなった。三宅坂からお堀に出ると、軍隊が銃を構えて並んでいる。社に着いたのはいつもより遅かったが、まだ場は立っていなかった......http://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki18/kobore18.html

 赤坂の連隊はおそらく今のTBSのあたりにあった近衛歩兵第3連隊とみられ、同連隊から中橋基明中尉が反乱部隊に参画し、高橋是清を殺害していますが、部隊所在地は反乱部隊と鎮圧部隊の境目のあたりになり、この記述で、赤坂まで車に乗せた将校がどちらの部隊か、判然としませんね。

 ちなみに、鹿島建設がなぜ山崎種二のことを書いているのか、ホームページの問い合わせ先にメールで問い合わせてみました。回答は頂けませんでしたが、推測するに、「こぼれ話」にも出てくる山種の本社ビル(前年兜町に新築した大理石造5階建)を建設したのが鹿島だったからではないかと思われます。

 とにもかくにも、「内戦」は回避されましたが、当時の記録を見れば見るほど、竹橋の平和な風景のありがたさを痛感させられます。

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 大阪市でクラシック音楽の殿堂と言えば、大阪城ホールか、中之島のフェスティバルホール。その中之島フェスティバルホールが建て替えられて、ホールを内包した「中之島フェスティバルタワー」がこのほど竣工しました。地上39階、地下3階、高さ200mのビルの中には、オフィス、レストラン、ショップも同居しています。堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島にそびえる「水の都」大阪の新名所になりそうです。

 中州という軟らかい地盤の上に建築されているため、耐震性能アップに力を入れています。阪神淡路大震災をしのぐ震度7にも耐えられる構造だと設計者は自負しています。低層階に入るフェスティバルホール上部には免震装置とダンパー(震動吸収装置)による中間層免震構造を採用しているそうです。

 フェスティバルホールは2700席という巨大ホール。クラシックだけでなく、ジャズやポップス、ロック、演歌などすべてのジャンルの音楽に対応できるマルチ音響設備を擁しているそうです。来年4月にはこけら落としの公演として、イタリアの「フェニーチェ歌劇場」を招く計画になっています。

 ビルの正面玄関から2階のフェスティバルホールに入る階段には見事な赤じゅうたんが敷かれており、大阪のオバチャンたちの撮影スポットになっています。中央の踊り場に立って、宝塚のレビュー並みのポーズをとってシャッターを押したりして、はしゃいでいます。

 2階のレストラン街には、パレスサイドビル9階で永年営業している「アラスカ」が、「アラスカ フェスティバルタワー」として開店しました。緑に包まれた皇居を見渡せるレストランとして定評のあるパレスサイド店は、俳優の平幹二朗さんが佐久間良子さんにプロポーズしたといわれる東京の名所ですが、フェスティバルタワー店もオープンキッチンのレストランとして大阪の新名所になることでしょう。

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 急に冷え込んできたのですが、桜の花便りがいろいろと伝わってきています。東京・竹橋のパレスサイドビル近くの皇居東御苑からも北の丸公園からも...。公園だけでなく神社やお寺からも聞こえて来ます。

といってもフユザクラの便りなのです。東御苑では本丸前のけやき広場の東側に1本、これまた花をつけているジュウガツザクラと並んで咲いています。春の花盛りとは違って木を覆い尽くすような咲き方ではありませんが、葉が散った枝からぽつぽつと白い花を付けています。東側を見ると紅葉した葉っぱがバックに映り、春と秋がいっぺんに来たようで何とも不思議な感じがします。

 フユザクラはヤマザクラとマメザクラとの交配種だそうですが、さすがに寒いときに咲くので春のポカポカ陽気の時と違って、パッと咲いてパッと散るのではなく、花びらはしっかりついて長持ちしています。初冬に一度ピークを迎え、その後数輪程度咲き続けて、春になるとまたピークが来て、春らしく咲き誇っていきます。バラの中には繰り返し咲きの品種がいくつかありますが、サクラもバラ科で、フユザクラもかなり長く楽しめます。

 年が明けると、カンザクラ(寒桜)に続き、カンヒザクラ(寒緋桜)、カワヅザクラ(河津桜)、ヒガンザクラ(彼岸桜)......とこれから桜の便りが繰り返し伝わってきます。これを楽しみに寒い冬を乗り切っていきましょう。

 

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 寒くなりましたね。鍋がおいしい季節です。ということで、東京・銀座1丁目の外堀通り沿いにオープンした茨城県の新しいアンテナショップ「茨城マルシェ」の続きの話はお鍋です。

 レストランのディナー(17~23時)の自慢料理のひとつは、まるごと奥久慈しゃも鍋(単品1人3580円、コース5500円=2人から)、味噌仕立ての田舎風あんこう鍋(同2580円、4500円)=写真㊤、茨城マルシェのホームページより=とローズポーク豆乳鍋(同1980円、3500円)の3つの鍋。いずれも茨城名物やブランド食材を使ったものです。

 あんこう鍋には東日本大震災にまつわるドラマがあります。

 茨城マルシェのホームページ(http://ibarakimarche.com/)に、「震災から再起をかけた、誓いのあんこう鍋」という説明文が載っています。

水戸光圀が日の出の名勝地と称えた美しい海が広がる日立。311日、その海は豹変した。50年以上も続く鵜の島温泉旅館を営む原田実能さんは、押し寄せる津波からかろうじて逃れ、旅館が流されるさまをただ呆然と見ていることしかできなかった。......収まらない余震、広がる風評被害、建て直しの資金調達などの問題も重なり、再起への想いは日増しに薄らいでいく。そんな中、原田さんは津波に流されずに見つかった料理帳があることを思い出す。それは先代の館主が書き記した旅館の料理法をまとめたもの。......「もう一度、あんこう鍋を作ろう。あの鍋を毎年楽しみにして来るお客さまを再びお迎えするために」。鵜の島温泉旅館、再起へ。その熱い想いが込められた伝統のあんこう鍋が、ここ茨城マルシェで復活を果たす。

 鵜の島温泉旅館(Facebook「https://www.facebook.com/unoshima.onsen.ryokan」)は、茨城県日立市中心街に近い東滑川町の大田尻海岸、まさに海の真ん前にあります。来年の再開を目指して頑張っているといいますから、銀座で一足早く、伝統の味を堪能できる!!ってことですね。けっこう濃厚な味噌仕立ての味に、はまる人ははまるでしょう=写真㊦、茨城マルシェのホームページより。

 茨城マルシェはパレスサイドビルがある竹橋から地下鉄などをちょっと乗り継いで地下鉄銀座1丁目駅から1分、銀座駅から4~5分、JR有楽町駅から3分と、便利な立地です。  

料理

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