江戸時代後期、神田錦町一帯は護寺院原という原っぱで、わずか11年の間に2件の敵討ちがあったことは以前この欄で紹介しましたが、仇討ちについては武家社会で主君や奉行所が認めたもので、仇敵を殺しても罪に問われることはありませんでした。しかし、明治時代になると近代国家への歩みが急がれている中で、国家的公刑罰権の確立の証として仇討ちは禁止されました。明治6(1873)年に江藤新平が出した復讐禁止令です。
それでも、仇討ちは起きましたが、日本史上最後仇討ちといわれているのが明治13(1880)年にあった「臼井六郎仇討ち事件」です。
慶応4(1868)年、開明派で秋月藩執政の臼井亘理が守旧派の国家老の命を受けた干城隊数人の襲撃を受けて妻や幼い娘共々殺されたのが発端です。別室にいて難をのがれた長男、六郎はこの時10歳でした。藩は襲撃犯を罰しなかったため六郎は成長するにつれ敵討ちの意を固め、山岡鉄舟の門をたたき剣術の腕も磨いていました。
六郎はひょんなことから惨殺に手を下したのは山本克己こと一瀬直久であることを突き止めます。一瀬は裁判官になっていて転勤が多く居場所がなかなかつかめませんでしたが、明治13年12月17日正午ごろ、東京の三十間堀三丁目(現中央区銀座)の黒田長矩の屋敷で、東京上等裁判所の判事補になっていた一瀬を見つけ、戸口に出てきたところを隠し持っていた短刀でのどを刺すなどして本懐を遂げたのです。
六郎はすぐに警察署に自首、謀殺(殺人)犯として起訴されました。翌明治14(1881)年の9月22日に東京裁判所で判決があり「禁獄終身」を言い渡されました。六郎は大日本帝国憲法公布の大赦などもあって明治24(1891)年9月22日に出所しました。その後、門司駅前で饅頭屋を開き、結婚もして満ち足りた生活を送りましたが大正6(1917)年病死、故郷の両親の傍らに埋葬されました。
吉村昭が小説「敵討」でも書き、テレビドラマにもなりましたが、東京・竹橋のパレスサイドビルに本社がある毎日新聞社が発行する毎日新聞の前身東京日日新聞には、明治13年12月18日付の紙面で六郎の仇討ち事件の記事=写真右、同14年9月24日付で判決文=同左=が掲載されています。