竹橋に近くに駐屯する近衛砲兵第1大隊の兵が反乱を起こした「竹橋事件」(1878=明治11年)の生々しい描写を残した後の陸軍大将、柴五郎(1860~1945年、当時は陸軍士官学校生)。彼の備忘録をもとに書かれた「ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書」(1971年、中公新書)を先日紹介しましたが、今回はこの著者、石光真人(いしみつ・まひと、1904~75年)の一族の話です。
真人は戦前、毎日新聞の前身「東京日日新聞」記者でしたが、柴との関係は真人の父真清(まきよ、1868~1942年)=写真㊤=に遡ります。
柴の恩人の一人に野田豁通(ひろみち)がいます。野田は初代青森県知事等を経て男爵になり、貴族院議員を務めますが、元々、陸軍の経理関係の役職を歴任して、経理組織の礎を築くとともに、柴をはじめ後輩の面倒をよく見た人です。この野田は熊本藩の石光家の出で、真清の叔父。陸軍幼年学校受験のために上京しながら遊び呆けていた真清を叱責、柴に預けました。これが柴と真清の出会いです。
柴の指導の甲斐あって合格した真清は、軍人としてシベリア、満州で諜報活動に従事します。国立国会図書館のサイトによると、日清戦争後大陸に渡り、休職、ロシア留学などを経て予備役、満洲・シベリアで大陸浪人生活を送り、日露戦争、シベリア出兵の際は召集され、再び諜報活動に携わり、「1906年5月、関東都督府陸軍部付通訳」「1917年12月、関東都督府陸軍部嘱託」といった肩書きでした。柴も中国で諜報活動に従事したそうで、真清が諜報活動で写真師に変装したのは、柴の手法に倣ったという説もあります。
真清の手記は真人の手により「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」の4部作(中公文庫)として1958年、世に送り出されています。日記・メモ帳、日露戦争関係資料、諜報活動報告書・命令書・暗号表、さらにシベリア・満州各地の写真などを収録。例えば「誰のために」はロシア革命を受けて再び大陸に狩り出され、戦略を欠くシベリア出兵のために戦争の最前線に援護もなく放り出され、街を追われ、失意のうちに諜報活動から身を引いた懊悩がつづられています。文学的にも高い評価を受け、この年の第12回毎日出版文化賞に輝きました。NHKが1998年、仲村トオル主演でドラマ化した「石光真清の生涯 夢に賭け命を燃やすあるスパイの物語」を覚えている方もいるでしょう=写真㊦は当時の文庫本のカバー。
ちなみに、石光家の人々は他にも多士済々。4人兄弟の2番目の真清の長兄真澄は日本麦酒(サッポロビールの前身)の役員、弟の真臣は陸軍中将。妹の真津子は真澄の部下だった橋本卯太郎(日本麦酒などが合併した大日本麦酒の役員)に嫁ぎ、その孫が橋本龍太郎元首相です。なお、真人は戦前、日本新聞協会に勤め、戦後は新聞・雑誌の発行部数を認証・発表する日本ABC協会の専務理事などを務めました。
ある事件を出発点に、さまざまな人物を辿り、その人と時代とのかかわりを考える――歴史の一つの楽しみ方です。