【2012年11月 2日】のアーカイブ

竹橋近くの近衛兵兵営を舞台にした「竹橋事件」。1878(明治11)年823日、近衛砲兵第1大隊の兵260余名が決起した反乱の生々しい描写を、当時、陸軍士官学校生だった柴五郎=写真㊤=残しています。彼も興味深い人物です。

「銃声しきりにおこりて走りゆく足音繁く、戦争おこれりと立ち騒ぐ声しきりなり。余は......飛びおき、士官学校の服に着替えて飛び出せり。......九段坂を一直線に馳せ登りたり。弾しきりに飛びきたり、石垣にあたりて火花を散らし、危険このうえなし......

柴の備忘録をもとにまとめられた「ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書」(石光真人著、中公新書、1971年)=写真㊦=というロングセラーの一節です。

柴はこう断じます。「西南の役しかり、この暴動しかり、いずれも維新に内在する無理、摩擦、未熟、矛盾に起因するものならん」

この言葉、柴が会津藩士出身(1860年生)と聞いて納得。白虎隊で有名な会津戦争で薩長を主力とする官軍に敗れた時、柴少年は8歳。祖母・母・姉妹らは自刃し、藩ごと流刑のような状況で父とともに主家について下北半島に移り、極貧の生活を送りました。藩の選抜で青森県庁の給仕となったのをきっかけに、15歳で陸軍幼年学校、さらに士官学校へ......と軍人の道を歩み、陸軍大将にまで上り詰めます。

彼が歴史に名を残したのは1900の義和団事件(北清事変)です。当時、新興宗教団体の反乱をきっかけに、日米英仏独露などの駐在武官や民間人が、各国の援軍が来て北京を占領するまでの2カ月、北京の大使館エリアに籠城しました。この時、駐在武官(砲兵中佐)だった柴は大いに活躍し、後日、各国から勲章を山のよう受け、特に英国の評価を得たことが2年後の日英同盟締結につながったとも評されます。

もちろん、列強が弱体化した清にやりたい放題の日露戦争(1904年)前夜です。西太后らが北京を逃れた後の北京占領において戦利品として大量の銀貨などを柴が押えたといいますから、中国側にすれば、歓迎せざる"よそ者"であり、"日帝"そのものかもしれません。ただ、柴は日本軍の支配地域で将兵による民間への略奪を厳禁し、逸早く治安を回復したと伝えられます。被占領の辛苦をなめた原体験を持つ会津人の面目躍如というべきでしょう。

「ある明治人の記録」には、柴が第2次大戦中、著者の石光に「この戦争は負け」と語ったことが記されています。そして敗戦直後の1945915日、85歳の柴は自決を図り、この傷がもとで同年12月に亡くなったそうです。石光の分析のように、軍人として後輩の不始末(敗戦)が耐え難かったのか、定かではありませんが、最後まで軍人として生き、死んだということでしょう。

竹橋ガイド

calender

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

November 2012

category

カテゴリ

月別アーカイブ

月別 アーカイブ

eBook

  • 江戸城散歩2008年3月、毎日新聞掲載
  • 江戸城今昔ものがたり
  • 東京・竹橋 花図鑑
  • 東京・竹橋 続花図鑑
  • 東京・竹橋 新緑図鑑
  • 東京・竹橋 歴史絵巻 原始〜江戸時代初期
  • 東京・竹橋 歴史絵巻 江戸時代前期〜現代
  • 東京・竹橋 国際図鑑
  • 東京・竹橋 アカデミー図鑑
  • 東京・竹橋 文学散歩
  • 東京・竹橋 紅葉図鑑
  • 東京・竹橋 歳時記
  • 東京・竹橋 さくら図鑑