東京・竹橋のパレスサイドビルの北側、神田錦町一帯はかつて東京大学や東京外国語大、東京商科大(一橋大)などがあった文教地区で、正岡子規がこの地区にあった寄宿舎に一時住んでいたことは25日のこの欄で触れましたが、江戸時代後半は「護持院が原」という広大な原っぱになっていました。もともとは護持院という寺院があったのですが、享保2(1717)年の大火で焼失して以降、江戸の火除け地、つまり延焼防止のための空地になっていました。若いころ語学の勉学のために築地から小石川へ通う途中にあたりをよく歩いたという福沢諭吉は「追い剥でも出そうなところ」と表現するほどの寂しいところだったようです。
この「護持院が原」を舞台にした敵討ちが江戸末期に二度もあったのです。その一つは森鴎外の短編小説「護持院原の敵討」にもなった敵討ちです。
天保4(1833)年12月、金部屋の泊り番だった大金奉行山本三右衛門が偽手紙を届けに来た二十歳の男、亀蔵に殺されました。犯罪被害者の子供である三右衛門の息子、宇平と宇平の姉、りよは許可を得て、亀蔵に敵を討つことになりました。りよは江戸に残り、叔父の九郎右衛門と亀蔵の顔を知っている文吉が助っ人として加わり宇平と3人で亀蔵を追ったのです。3人は高崎、前橋、長岡、新潟、富山、吉野、兵庫から中国、四国、九州と、東北・北海道以外の日本をあらかたまわったものの亀蔵を見つけることができませんでした。
江戸を発って1年半後の天保6年6月、亀蔵が江戸にいるという知らせを聞き一行は江戸に戻ることになったのですが、宇平は精神的に参っていて敵討ち行脚からドロップアウトしました。7月に江戸に着いた二人は両国で花火の夜についに亀蔵を見つけて尾行。護持院原で亀蔵を捕まえたうえで、りよを急きょ呼び寄せました。縄を解かれた亀蔵はりよにとびかかって逃げようとしましたが、りよは持っていた短刀で亀蔵を刺し、九郎右衛門ともども本懐を遂げたのです。
敵討ちを果たすということは当時、大変めでたいこととしてもてはやされ、りよや九郎右衛門、文吉には多大な褒美の品や祝い品が贈られたり、藩主らに特別に取り立てられました。
また、この敵討ちは、りよが20代の女性だったこともあり、大評判となって様々な内容の瓦版=写真右=が江戸中に出回りました。
二つ目の敵討ちは、それから3年後の天保9年12月に、下谷で切り付けられ死亡した剣術道場の師範の仇を甥と弟子が討ったものです。