48年前の1964年10月10日に東京オリンピックの開会式が行われました。突き抜けるような青空に、航空自衛隊のブルーインパルスが、五色のオリンピックマークを飛行機雲で描いた光景が、多くの都民の目に焼き付いていることでしょう。
この東京オリンピック招致に活躍したのが、IOC(国際オリンピック委員会)委員だった高石真五郎翁です。パレスサイドビルに入居している毎日新聞社の海外特派員を長く務めて築いた国際的な人脈を生かして、JOC委員にならずにIOC委員になったのが1939年でした。1940年の東京五輪が戦火で中止になり、自身の公職追放もあって、1952年のヘルシンキ五輪のころから、「東京五輪を幻のままにせずに、戦後復興の証として実現しよう」と奔走を始めました。いろいろ曲折はありましたが、1959年のIOC総会で64年東京五輪が決定しました。
東京五輪では初めて採用された柔道でメダルの授与役を行いました。またマラソンで円谷幸吉が銅メダルを獲得、ブランデージ会長の秘書の機転で高石翁が円谷選手の首にメダルをかけました。
高石翁はその後、冬季五輪の札幌招致にも活躍しました。1972年五輪開催地を決めるローマIOC総会(1966年)に残念ながら病気で出席できなくなったとき、メッセージの録音テープを総会で流してもらいました。これが反響を呼び、ブランデージ会長が「札幌開催が高石への見舞いだ」と発言、流れが決まりました。高石翁は札幌五輪を見ることなく、1967年に88歳の生涯を閉じました。
無類のゴルフ好きで、相模原ゴルフ倶楽部や武蔵カントリークラブの初代理事長としてゴルフの振興にも貢献しました。