【2012年10月】のアーカイブ

 先日紹介したように、パレスサイドビルから10分ほど、「カレーの街」神田で「神田カレーグランプリ(GP2012」が102728日開かれ、第1回の昨年の3万人を軽く超える4万人が訪れる大盛況だったそうです。人気投票で上位3店が決まりました(主催者ホームページhttp://kanda-curry.com/」参照)。

カレーに関しては、あまた論じられています。「カレーライスと日本人」(森枝卓士、講談社現代新書)=写真㊦=が結構面白かったので紹介します。

本場インドではスパイスを混ぜ合わせてすりつぶすのが、インドを植民地にした英国で、いちいち面倒だと考えて、すぐ溶いて仕える「パウダー」になり、「ルー」になっていったということで、鹿鳴館時代に「C&Bカレー粉」が日本に入ってきたといいます。同書の筆者の調べでは、文献に記録が残る日本最古のカレーは1872(明治5)年刊の「西洋料理指南」=写真㊤、「カレーライスと日本人」より=の「カエルカレー」。明治10年には、精養軒と並ぶ有名洋食屋「三河屋」の宣伝に「ライスカレー125厘」と記されているそうです。ただ、このころの「具」はカエルのほか、タケノコやキノコ、レンコンなど雑多で、筆者が「本格的日本式」と考えるジャガイモ、ニンジン入りのカレーは1915(大正4)年刊の「家庭実用献立と料理法」(西野みよし)でようやく登場。このころ以降、軍隊食として採用され、「国民食」に発展していく――というわけで、他の本でも、概ねこうした時系列が定説と言えそうです。筆者は、カレーが「国粋主義にとどまらず、積極的に外のものを取り入れて形成される......日本文化の特質を象徴する」と書きます。

ただ、一気に歴史を400年巻き戻す説も。16世紀の織田信長の時代、キリシタン大名の大友宗麟、大村純忠らが「天正遣欧少年使節」を派遣しましたが、この時にインドからカレーのスパイスを初めて日本に持ち帰ったという説が、大村の地元、長崎県大村市で唱えられ、「カレーのルーツのまち」と、地域興しに活用されています(根拠はもう一つはっきりせず、大村市のホームページも、町おこしサークルを紹介している程度です)。

上記の「カレーGP」のページも「日本におけるカレーの歴史」を簡単に掲載していて、「少年よ大志を抱け」のウィリアム・クラーク博士の話を紹介しています。札幌農学校(現北海道大)の教頭を務めたクラークは米食を推奨せず、唯一ライスカレーだけは例外として、生徒たちに勧めたというのです。ただし、異論もあり、「カレーなる物語」(吉田よし子、筑摩書房)は、北大に残る記録はクラーク離日後の18779月のカレー粉の納入記録しかないとして、クラークの逸話に疑問を呈しているそうです。

 かくのごとき蘊蓄が本やネットにあふれる日本は、やはりカレー天国なんですね。

 東京・竹橋のパレスサイドビル近くに江戸後期あった「護持院が原」でのもう一つの敵討ちは、本懐を遂げるまで8年の歳月が経過しました。

 事件は天保91838)年12月に起きました。剣道場師範の井上伝兵衛にいかがわしい借金の取り立てを依頼したところ断られたうえ厳しく叱責された町奉行・鳥居耀蔵の家来、本庄茂平治が、これを根に持って下谷で伝兵衛を闇討ちにして殺したのが発端です。伝兵衛の実弟で松山藩士、熊倉伝之丞とその子、伝十郎が敵討ちを決意し、江戸に出たのですが、これを知った茂平治は先手を打ち、人を使って伝之丞を謀殺したのです。今度は叔父と父親を殺されたことになる伝十郎と、伝兵衛の弟子、小松典膳が敵討ちに出ました。

 一方、天保の改革が終わったあと、鳥居耀蔵の悪事を暴く証人として連行された茂平治は、二人を殺したことを自供し投獄されました。牢内で神妙にしていた茂平治は減刑され、弘化31846)年8月に出牢しました。長年の牢屋生活で衰弱し歩くのもやっとという状態だった茂平治は駕籠で江戸を離れようとしましたが、駕籠が護持院原まで来たところで、茂平治の出牢を知っていた伝十郎と典膳に声をかけられ引きずり出されました。二人は茂平治を滅多切りして殺し本懐を遂げました。

 この敵討ちは吉村昭の小説「敵討」などで取り上げられていますが、森鴎外の「護持院原の敵討」の件に比べると、女性が絡んでいないためか、はたまた歩くのもやっとという衰弱した男を滅多切りにしたという行為のせいか、こちらの方は何かすっきりした感じがない様に思われてなりません。吉村昭の「敵討」では伝十郎はその後、流浪中に感染した梅毒によって死亡した、と記されています。なんとなく哀れさも感じられます。

 東京・竹橋のパレスサイドビルの北側、神田錦町一帯はかつて東京大学や東京外国語大、東京商科大(一橋大)などがあった文教地区で、正岡子規がこの地区にあった寄宿舎に一時住んでいたことは25日のこの欄で触れましたが、江戸時代後半は「護持院が原」という広大な原っぱになっていました。もともとは護持院という寺院があったのですが、享保2(1717)年の大火で焼失して以降、江戸の火除け地、つまり延焼防止のための空地になっていました。若いころ語学の勉学のために築地から小石川へ通う途中にあたりをよく歩いたという福沢諭吉は「追い剥でも出そうなところ」と表現するほどの寂しいところだったようです。

 この「護持院が原」を舞台にした敵討ちが江戸末期に二度もあったのです。その一つは森鴎外の短編小説「護持院原の敵討」にもなった敵討ちです。

 天保41833)年12月、金部屋の泊り番だった大金奉行山本三右衛門が偽手紙を届けに来た二十歳の男、亀蔵に殺されました。犯罪被害者の子供である三右衛門の息子、宇平と宇平の姉、りよは許可を得て、亀蔵に敵を討つことになりました。りよは江戸に残り、叔父の九郎右衛門と亀蔵の顔を知っている文吉が助っ人として加わり宇平と3人で亀蔵を追ったのです。3人は高崎、前橋、長岡、新潟、富山、吉野、兵庫から中国、四国、九州と、東北・北海道以外の日本をあらかたまわったものの亀蔵を見つけることができませんでした。

江戸を発って1年半後の天保66月、亀蔵が江戸にいるという知らせを聞き一行は江戸に戻ることになったのですが、宇平は精神的に参っていて敵討ち行脚からドロップアウトしました。7月に江戸に着いた二人は両国で花火の夜についに亀蔵を見つけて尾行。護持院原で亀蔵を捕まえたうえで、りよを急きょ呼び寄せました。縄を解かれた亀蔵はりよにとびかかって逃げようとしましたが、りよは持っていた短刀で亀蔵を刺し、九郎右衛門ともども本懐を遂げたのです。

敵討ちを果たすということは当時、大変めでたいこととしてもてはやされ、りよや九郎右衛kawaraban.jpg門、文吉には多大な褒美の品や祝い品が贈られたり、藩主らに特別に取り立てられました。

 また、この敵討ちは、りよが20代の女性だったこともあり、大評判となって様々な内容の瓦版写真右=が江戸中に出回りました。

 二つ目の敵討ちは、それから3年後の天保912月に、下谷で切り付けられ死亡した剣術道場の師範の仇を甥と弟子が討ったものです。

  アジア最後のフロンティアといわれるミャンマー。軍事政権の圧政から開放されて、いま民主化の道を歩んでいます。日本からの投資にも期待がかかり、全日空は1015日から成田‐ヤンゴン線をスタートさせました。月・水・土の週3往復です。これまでタイのバンコク経由などで行っていたのに比べて圧倒的に近くなりました。

 そのミャンマー、私たちにとって身近な国でもあるのです。というのも、パレスサイドビルのある竹橋駅から地下鉄東西線で12分、高田馬場駅周辺が「リトル・ヤンゴン」と言われているのです。ミャンマー料理店をはじめ、食材のお店、美容院などミャンマー人が経営する店が20店ほど集まっているのです。同駅から早稲田通り沿いとその路地裏です。リトル・コリアといわれる新大久保の規模にはかないませんが、500人ほどのミャンマーの人たちがそこで生計を立てています。

 軍事政権を逃れてきた人たちが、西武新宿線の中井駅周辺のアパートに住み始めたのが起源らしく。下落合、豊島区高田などを含めると約1000人が暮らしているといわれています。彼らにとっては軍事政権が改名したミャンマーという国は存在せず、「お国は?」と聞けば必ず「ビルマ」と答えます。

 ミャンマー料理はチェッターヒン(鶏とジャガイモの煮込み)とかトーフトウ(豆腐の和え物)などが中心です。日本とも中華とも違う独特の油に特徴があります。どちらかといえば中国雲南省などに近いため、油もそちらに似ているようです。

 第2次大戦の終戦のあと、戦友の遺骨を埋葬し続けるために僧侶になって帰国を拒否した水島上等兵を描いた「ビルマの竪琴」(武山道雄作)以来、日本人には親しみやすい国です。全日空でヤンゴンに飛ぶ前に、高田馬場で「予習」をしてみてはいかがですか。

 あす1026日は「柿の日」。全国果樹研究連合会カキ部会が、有名な正岡子規の俳句「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」にちなんでこの日に制定したそうです。しかし、この句を詠んだのは法隆寺ではなくて本当は東大寺である、という説があります。

 パレスサイドビルが建っている所のすぐ近く、外神田錦町にかつてあった第一高等中学校寄宿舎に一時住んでいたことのある正岡子規についての書物や研究は数えきれないほどあり、多くは記しませんが、病気療養のため郷里の松山市に戻っていた正岡子規は、友人であった夏目漱石に借金をして東京の自宅に戻る途中、病気を押してかねてから熱望していた奈良地方の旅行をしたのです。奈良に着いたのが1895(明治28)年の1026日だったのです。この日は、東大寺近くの宿に泊まり、御所柿を食べながら鐘の音を聞いたのです。子規が雑誌「ホトヽギス」に載せた「くだもの」(明治3434月)の中の「御所柿を食ひし事」では次のように記されています。

「夕飯を過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかといふと、もうありますといふ。余は國(くに)を出てから、十年程の間御所柿を食った事がないので非常に戀(こい)しかったから、早速澤山持て来いと命じた。やがて下女は直徑一尺五寸(約45㎝)もありそうな錦手の大丼鉢に山の如く柿を盛てきた。流石柿好きの余も驚いた。それから下女は余の為に庖刀を取て柿をむいてくれる様子である。(中略)やがて柿はむけた。余はそれを食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。柿も旨い。場所もいい。余はうつとりとしているとボーンといふ釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜(そや)が鳴るといふて尚柿をむきつゞけてゐる。(中略)あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。...略」。

また、奈良の旅行で法隆寺を訪れたのは1028日で、この日は雨が降っていたということなどから「東大寺」という説が出てきたのでしょう。全国果樹研究連合会も、この説を有力だとして26日を柿の日にしたのかもしれません。

ただ、子規の自筆俳句全集「寒山落木」巻四では、「法隆寺の茶店に憩ひて」とあってこの句と「垣ごしに 渋柿垂るる 隣かな」の2句が書かれています。すでに慣れてしまったからかもしれませんが、この句の柿を食うイメージとしては東大寺より、もっと古い法隆寺の方がふさわしい気もします。

パレスサイドビルがある竹橋付近にあった近衛兵の兵営を舞台に1878(明治11)年に起きた260余名の兵士による反乱=「竹橋事件」を扱った澤地久枝さんのノンフィクション「火はわが胸中にあり」を先日、紹介しました。

事件は、前年の西南戦争の論功行賞と待遇への不満(恩賞が上層部に止まる一方、下士官や兵は減給)を契機に兵士が決起し、天皇に強訴しようとしたものですが、同書の中で、澤地さんはある人物に注目しています。鎮台予備砲兵第1大隊大隊長の岡本柳乃助少佐(18521912年)=写真㊤=です。

決起の中核は近衛砲兵ですが、他の部隊もからんでいて、岡本は事件を主導した(兵士たちを焚きつけた)疑いで追及されました。

和歌山・紀州藩出身の岡本は、同じ紀州藩の出である陸奥宗光(184497年)=写真㊦=に連なる人物で、幕末は彰義隊にも加わった佐幕派でしたが、維新後、紀州藩政改革で陸奥に見いだされ、陸軍入りも陸奥の引きがあったからとされます。

陸奥は、後に欧米との不平等条約改定に尽力して教科書にも出てきますが、実は竹橋事件当時は獄中にありました。西南戦争に呼応して挙兵を企てたとされる土佐(高知)の「立志社事件」に連座したのです(1883年に出獄後、伊藤博文らとの関係もあって復権)。そこで、岡本は、反乱を利用して、兵士の強訴を抑えるのと引きかえに獄中の陸奥の罪を軽くしようと企てた――澤地さんの推測です。実際、岡本は死刑を免れ、軍隊をクビになっただけで自由の身になるのです。

まあ、真相は闇の中ですが、この後の岡本の人生もまた波乱万丈。福沢諭吉邸の書生になり、慶応義塾で学び(陸奥が福沢と親しかったといわれるので、その縁か?)、後年、李朝末期の朝鮮に渡り、閔妃暗殺(1895)に関わることになるのです。

その後の人生も、いろいろと曰くのありそうな人ですが、にわか勉強では捉えきれません。改めて調べてみたくなりました。

竹橋事件に話を戻すと、事件自体は指揮命令系統なども稚拙で、だからこと岡本らの思惑に翻弄されたということでしょうか。澤地さんならずとも、歴史的事件の背後でうごめく人物に興味を掻き立てられるものです。付け加えれば、澤地さんのスタンスが、そうした輩に利用された反乱兵士たちへの温かい思いに貫かれているのは、言うまでもありません。

陸奥宗光.jpg

 今月27日、28日に開かれる「東京名物神田古本まつり」のために、無料の丸の内シャトルバス「秋まつり号」が神田神保町などをめぐるルートに延伸して運行されます。パレスサイドビルの正面玄関脇に「竹橋毎日新聞社前」という臨時のバス停留所が設けられ、会場の神田神保町古本屋街からノンストップでこのバス停まで行くことができ、また、このバス停からノンストップで古本屋街に着きます。

 シャトルバスの竹橋毎日新聞社前からのルートでは、神保町古本屋街、小川町スポーツ店街、秋葉原和泉船着場前を通り、昨年4月に完成したばかりの日本橋南詰船着場前につながっています。

 この船着場は、あの日本国道路元標があり、「麒麟の翼」で有名な石造りの日本橋南側のすぐ脇、滝の広場にあります。道路から一段下がり、入口もあまり目立たない小さな広場ですが、夜になるとライトアップされ2面の壁に流れ落ちる滝が黄金色に浮き出ます。

この広場は江戸時代には間口5間(約9m)奥行1丈(約3.3m)の小屋があり、その周りに縄囲いをして罪人を晒した場所でした。犯罪人が刑に処せられる前に見せしめのために午前8時ごろから午後4時ごろまで3日間、通行人らにさらされたのです。最初に晒し刑になったのは心中未遂事件を起こした津軽岩松藩の武士、原田伊太夫と吉原の遊女、尾上で、二人の物語は新内節や岡本綺堂の戯曲「尾上伊太八」の元にもなりました。

 滝の広場から船着場に出るところが「双十郎河岸」=写真。日本橋架橋100周年の記念歌舞伎公演をした市川團十郎と坂田藤十郎の東西の歌舞伎役者の重鎮二人の十郎からとって昨年7月に命名されました。命名の記念碑セレモニーでは二人がこの河岸から屋形船に乗り込んで日本橋川クルーズに出かけました。

 神田古本まつりの日には秋葉原和泉防災船着場から神田川のお茶の水渓谷を通り、日本橋川のパレスサイドビル北側の雉橋、一ツ橋などをめぐり、日本橋南詰船着き場で折り返す神田川・日本橋川クルーズが運行されます(有料)。日本橋南詰船着場で下船もできます。

古本市を堪能したらシャトルバスで秋葉原和泉防災船着場に行き、神田川・日本橋川クルーズを楽しみ、日本橋南詰船着場で下船して双十郎河岸の石碑や滝の広場を見てはいかがですか。

  日本で一番高い山はもちろん富士山(3776m)。二番目は南アルプスの北岳(3192m)、三番目は北アルプスの奥穂高岳(3190m)、というのは、山岳愛好家でなくでもほとんど常識でしょう。

 この常識に敢然と挑んだのが「穂高開拓の父」といわれる今田重太郎さん(18981993)です。今田さんは1924年、まだ大正年間ですが、奥穂高と涸沢岳のコル(鞍部、2996m)にわずか20人収容の穂高小屋を作りました。その後、多くの登山客に安全な登山をしてもらおうと、上高地から穂高岳への登山道である「重太郎新道」を開拓しました。上高地から岳沢ヒュッテを通過して前穂高に登り、吊尾根を奥穂高に向かうルートです。前穂高の取付にある紀美子平は自身の娘の名前を付けたものです。

 登山客が増え始めた昭和30年代に穂高小屋は増築されて、100人以上収容可能になり、現在の穂高岳山荘に改名されました。岐阜県と長野県の県境にある穂高岳山荘は、飛騨側から吹き上げる強風が吹きすさんでいますが、その風を利用しての風力発電にもいち早く取り組んできました。

 その重太郎さんが悔しくて仕方ないのが、わずか2mの差で奥穂高岳が「日本3位の標高」ということでした。「富士山は仕様がない。しかし、なんとしても北岳を越して日本2位になろう」ということで、奥穂高の頂上にケルンを積み上げ始めました。1m2mと積み上げていき、最終的には現在の姿である3mの大ケルンです。その上に奥穂高神社の小さな社があります。国土地理院は残念ながらこの大ケルンを標高には入れてくれず、どの地図をみても「標高3190m」のままですが、重太郎さんは「北岳を越した。奥穂高は日本で二番目だ」という認識だったようです。

 その重太郎さんがよく口にした言葉が「僕は穂高に生かされている」というものでした。いま息子さんが跡をついで、穂高に生かされ続けています。

 穂高岳や槍ヶ岳登山はパレスサイドビル地下1階の毎日旅行でバスツアーがあります。

 パレスサイドビルがある竹橋付近にあった近衛兵の兵営を舞台に1878(明治11)年823日に起きた近衛砲兵第1大隊の兵260余名の反乱。この「竹橋事件」に、100年の時を経て光を当てたのがノンフィクション作家の澤地久枝さんです。

「火はわが胸中にあり――忘れられた近衛兵士の叛乱・竹橋事件」という作品が、事件から丸100年の19787月に角川書店から刊行されました。角川文庫、文春文庫にも収録され、最近では20089月に岩波書店から現代文庫で再版版されています=写真㊦は角川単行本、角川文庫、岩波現代文庫

その書き出しは、青山墓地の一角、縦長の石に「旧近衛鎮台砲兵之墓」と彫られた竹橋事件で処刑された兵士の墓が描かれています。澤地さんの追跡の中で発刊前年の1977年に所在が確認されたそうで。同書を紹介する岩波書店のホームページの記述によると、事件からわずか2カ月後に軍法会議で死刑となり、直ちに処刑された53人は、明治憲法の発布の際の特赦で、名目上は赦されました。墓の裏側に「大赦明治二十二年二月十一日」とある通りです。最初、現在の都立赤坂高校正門のあたりに建てられ、その後、青山に移設されたもので、向かって左隣に陸軍刑務所内で刑死または獄死した、引き取り手のなかった十七名の兵士を合葬した「合葬之墓」(こちらが大きくて目立つ)があり、さらに右隣りには1987年、遺族会などによって事件殉難者の鎮魂「碑」も建てられました=写真㊤、岩波書店ホームページより。

澤地久枝さんが書いた「碑文」には次のように記されています。

......兵士たちは徴兵によって陸軍にとられ、その多くは、前年の西南戦争の戦火をくぐりぬけて命をひろっている。徴兵制度への根本的疑問、明治維新以後の政治に対する不満が、天皇への直訴をふくむ行動へと兵士たちを駆りたてていった。生まれ在所の百姓一揆の伝統、のちの自由民権運動につながる志向も、兵士たちをささえる火であったと思われる。......踏みにじられた明治の青春の記念としていまここに碑を建て、『竹橋事件』が後世につたえられるべき火となることを願う......

「生まれ在所の百姓一揆の伝統、のちの自由民権運動につながる志向」とは、処刑者の中に秩父出身の者もあり、1884年に自由民権運動の影響下に起こった「秩父事件」(農民の武装蜂起)を念頭に置いた文章です。西南戦争という内乱と財政難を含め経済的に大きな困難を抱えていた時代です。「反乱」「蜂起」への評価は人それぞれでしょうが、「下級兵士の不満による暴動」の一言で片付けられない背景に迫ろうとする姿勢は大切なのでしょう。

火はわが胸中にあり「忘れられた近衛兵士の叛乱・竹橋事件」(古書) /沢地 久枝商品の詳細火はわが胸中にあり―忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件 (岩波現代文庫)

 住宅地や公園などあちこちで、キンモクセイの花の香りを感じられるようになりました。パレスサイドビル近くの北の丸公園でも、キンモクセイの木の数はそれほど多くありませんが、歩いているとどこからともなくあの心地よい甘い香りが漂ってきます。

 「心地よい甘い香り」と書きましたが、一部にはキンモクセイの香りからトイレを連想する人もいるようです。かつては、トイレの悪臭をまぎらわすためにキンモクセイをトイレの近くに植えた家も多かったそうです。キンモクセイが花を咲かせ芳香を放つのは1年でせいぜい23週間。その他の期間は悪臭を紛らわせることができなかったのですが、その後、トイレの芳香剤にキンモクセイの香りが使われるようになり、トイレでこの匂いが定着したようです。現在のトイレの芳香剤は柑橘系やラベンダー系が主流で、キンモクセイ系はほとんどありませんが、かつての芳香剤の匂いが印象に深く残っているためにトイレに結びつくようです。キンモクセイにとってはまったく迷惑な話ですね。

 ものの本によれば、キンモクセイは江戸時代に中国から渡来した、とありますが、静岡県三島市の三嶋大社には樹齢1200年を超えるともいわれ、天然記念物にも指定されているキンモクセイがあります。時には8キロ離れたところにまで匂いが届いたそうです。で、「江戸時代に渡来」とすると、当時で樹齢700800年になりますが、どうやって持ってきたのでしょうかね。

 また、雌雄異株ですが、日本には雄株しか入っておらず実を付けない、ともあります。確かにキンモクセイの実って見たことありません。それでは日本ではどうやって増えたのでしょうかね? キンモクセイは非常に生命力の強い木で、どうやら挿し木をしたり、自然に挿し木状態になって増えていったということのようです。

 キンモクセイは漢字で書くと金木犀。樹皮が動物のサイ(犀)の皮膚に似ていることから付いたといわれています。中国名は丹桂、花は桂花。中国のお酒で桂花陳酒というのがあります。キンモクセイの小さな花弁とつぼみを白ワインに漬け、3年間熟成させたもので楊貴妃も愛飲したと伝えられています。キンモクセイの甘い匂いがしますが、これを飲んでトイレでの飲酒を連想する人も......。

 パレスサイドビルがある竹橋は明治初期の大変な事件としても歴史に名を残しています。1878(明治11)年8月の「竹橋事件」です。近衛砲兵第1大隊の兵士260余名による反乱事件ですが、徴兵令で駆り出された農村出身の次・三男の兵士たちが、前年の西南戦争の論功行賞への不満を直接のきっかけとして決起し、大隊長を殺害、天皇に直訴しようとした――一般的に、「竹橋事件」はこのように解説されます。

明治初年、竹橋付近の北の丸に近衛兵の兵営が置かれ、1874(明治7)年に歩兵・砲兵の兵営が橋西詰に置かれ、竹橋営所と呼ばれたそうです。現在、清水濠に沿って石垣の上に並ぶ皇宮警察の職員住宅の辺りでしょう。

毎日新聞の前身の「東京日日新聞」の1878825日付号外=写真㊤=は次のように書いています(句読点もありませんが、あえて原文のまま)。

「一昨廿三日の夜近衛砲兵の暴挙は實に不意の騒動にて上は大臣参議を初め下は吾輩庶民に至る迄あわや大事と驚愕措く處を知らざりしに......暴動の起原を尋るに一朝一夕の所以にあらず第一には是まで近衛砲兵へは他の諸兵より多くの給金を與へられしに先ごろ陸軍省の定額を減ぜられたるに付て遽に其給金を減殺せられたるを不平に思ひ第二には元来此の近衛砲兵と云えるは昨年の変乱の折り植木、田原坂の戦争に抜群の功を顕わし......然るに官軍凱旋の後自与の諸隊は夫れぞれの御賞誉ありしが此隊に限り何分の御沙汰なきを政府の不公平なりと妄想し......事を挙げ政府へ嘆願し奉らんと......

午後十一時過ぎにもなれば一同銃器を提へて営外へ出で早くも隊伍を組立てたり......少佐(砲兵の大隊長宇都宮少佐)は......制止の号令をかけられしが......兇徒らは銃剣を打振り切てかかるものあり小銃を放つものあり少佐は乱刀の下に討死せられしぞ無慙なる......兇徒は猶も暴威を助けん為に......大隈参議の邸内へ(大砲を)発射し一手に小銃を乱発して近衛歩兵の営門へ向ひ暫らく戦ひしが......近衛の武器庫を守れる番兵が背後より小銃を打掛けたれば暴徒は大砲を其場に棄てて引退き......十二時を過るころには全く敗走し其場に討殺さるる者六名捕縛せらるる者七十余名其余百四名は......代官町より半蔵門をさして逃行きたる......

事件の2カ月後、関係者の取り調べも十分にされないまま軍法会議で53人(平均年齢24歳といいます)に死刑判決がくだされ、即日、越中島(江東区)の練兵場で銃殺されました。よくある「早々の幕引き」です。その一方、同年10月に軍人訓戒が出され、さらにこれを元にして1882年に軍人勅諭が発せられるなど、事件は、軍律徹底のきっかけになりました。時の政府の受けた衝撃の大きさがうかがえます。

 戦前は世間に広く伝えられることはなく、闇に沈んでいた事件は、100年の歳月を経て新たな光が当てられます。

 お賽銭がまたまた倍増です。

 最近注目の屋上庭園の中でも先駆的なものとして評価されているパレスサイドビル屋上。晴天の日の平日午前1145分から午後2時までは一般にも開放され、サラリーマンやOLをはじめ訪れ人たちのちょっとした憩いの場にもなっています。

その屋上に毎日新聞の社有機「ニッポン号」の世界1周飛行の安全を祈願して祀られた毎日神社が建っていることは126日のこのブログでご紹介しました。326日のブログでは社の前にある小さな賽銭箱中に、その7か月前に比べて倍の金額の浄財があったことをお知らせしましたが、1019日の毎日神社例大祭の前に、神社を管理している毎日新聞社が数えたところ、新たに3月の約2倍のお賽銭が入っているのがわかりました。1年余りの間になんと4倍近い増え方で、関係者も驚いているようです。

お賽銭の中で目立ったのが千円札の多さ。これまで調べたときに比べ数倍に増えていました。また、コインでは10円玉が一番多かったのは変わりませんが、今回は50円玉が増えて、10円玉に迫る多さになっていました。毎日神社の浄財に関してはインフレ傾向なのです。

なぜ、こんなに増えたのでしょうか。毎日神社には天照大神(あまてらすおおみかみ)、大山咋命(おおやまくいのみこと)が祀られ、「ニッポン号」の世界1周飛行安全祈願をしたお守りが収められています。「ニッポン号」が幾多の困難を乗り越えて快挙を成し遂げたことから、126日のブログにあったように「絶対に落ちない!」という御利益にあやかって合格祈願の受験生らが多くお参りした、と推測する関係者もいます。毎日神社にお参りすれば、試験だけでなく学校の成績も企業業績も「絶対に落ちない!」という祈願がかなうかもしれません。

  2020年オリンピックを東京に誘致しようと、石原都知事が先頭に立って奮闘しているのはご承知の通りです。「日本を元気に」「東京の再活性化」などを合言葉に国際社会にアピールし始めています。

 48年前の19641010日に東京オリンピックの開会式が行われました。突き抜けるような青空に、航空自衛隊のブルーインパルスが、五色のオリンピックマークを飛行機雲で描いた光景が、多くの都民の目に焼き付いていることでしょう。

 この東京オリンピック招致に活躍したのが、IOC(国際オリンピック委員会)委員だった高石真五郎翁です。パレスサイドビルに入居している毎日新聞社の海外特派員を長く務めて築いた国際的な人脈を生かして、JOC委員にならずにIOC委員になったのが1939年でした。1940年の東京五輪が戦火で中止になり、自身の公職追放もあって、1952年のヘルシンキ五輪のころから、「東京五輪を幻のままにせずに、戦後復興の証として実現しよう」と奔走を始めました。いろいろ曲折はありましたが、1959年のIOC総会で64年東京五輪が決定しました。

 東京五輪では初めて採用された柔道でメダルの授与役を行いました。またマラソンで円谷幸吉が銅メダルを獲得、ブランデージ会長の秘書の機転で高石翁が円谷選手の首にメダルをかけました。

 高石翁はその後、冬季五輪の札幌招致にも活躍しました。1972年五輪開催地を決めるローマIOC総会(1966年)に残念ながら病気で出席できなくなったとき、メッセージの録音テープを総会で流してもらいました。これが反響を呼び、ブランデージ会長が「札幌開催が高石への見舞いだ」と発言、流れが決まりました。高石翁は札幌五輪を見ることなく、1967年に88歳の生涯を閉じました。

 無類のゴルフ好きで、相模原ゴルフ倶楽部や武蔵カントリークラブの初代理事長としてゴルフの振興にも貢献しました。

神田は「カレーの街」だそうです。で、102728日の週末、神田小川広場イベント会場(千代田区神田小川町36)で「神田カレーグランプリ(GP2012」が実施されます。

この2日間(一部は26日から)、神田界隈で行われる「千代田の秋まつり」のイベントの一つです。「秋まつり」は「第53回東京名物神田古本まつり」「第22回神保町ブックフェスティバル」「第18回神田スポーツ祭り2012」=写真㊦、主催者サイトより=というお馴染みの3大イベントからなるのですが、このうち小川町界隈の靖国通り沿いを中心にしたスポーツ用品店街を舞台にした「スポーツ祭り」のメーン会場の小川広場で、特別イベントとして「カレーGP」があるということで、昨年に続いて2回目の開催です(他に「東北復興応援物産フェア」やスポーツ体験、ジャズ関連イベントなど)。

確かに、神田界隈にはカレー店が目立つと、感じていましたが、主催する「神田カレー街活性化委員会」によると、集積するカレー店は100店とも150店ともいわれるそうです(専門店だけでなく、カフェ、喫茶店、エスニック店、居酒屋、バーなどカレーを出す店も含めてですが)。インド風、タイ風、欧風、和風、中華風など特徴あるカレーも多く、オリジナリティー溢れる味で日ごろから人々を楽しませてることから、これを地域活性化に生かさない手はないと、「古本の街」「スポーツ用品の街」「楽器の街」に続く神田の第4の顔として「カレーの街」をアピールしよういうわけです。

主催者の狙いはそれとして、一般参加者にはどのカレーを食べるかが最大のテーマ。公式サイト(http://kanda-curry.com/)に出品する24店が紹介されているほか、カレー街の「公式ガイドブック」(無料)も制作され、順次配布中です。事前によ~く調べて、これぞという店の逸品を食べましょう。1食400600(何種類も食べられるよう通常より量は少なめ)1食ごとに投票券が1枚もらえ、投票でグランプリ~3位を選出します=写真㊤は昨年の投票所(フリーペーパー「おさんぽ神保町」サイトより)。

なお、動画メルマガFan+(ファンプラス)」が協賛し、専用ページ(http://fanplus.jp/_kandacurry_/)からFan+の会員登録(無料)して公認コンテンツをゲットすると200OFFチケットが手に入ります。

この催し、ブログなどで取り上げるのに格好のネタなのか、昨年の第1回目は「6皿も食べてきた!」など写真もふんだんに使ったレポートの多いこと多いこと(かく言う私も当ブログで書いているわけですが)。

竹橋のパレスサイドビルにもおいしいカレーを扱う店が多いですが、ホント、日本人のカレー好きを改めて実感します。

会場はパレスサイドビルから歩いて10分余り。2728日の日中、神保町~小川町~秋葉原~神田~日本橋~大手町と、有楽町~大手町をぐるりと回る無料の循環バス(2系統、大手町で乗り換え可能)が運行され、パレスサイドビルの前に臨時バス停「竹橋毎日新聞社前」が設けられます。

 ノーベル医学生理学賞の発表で、「iPS細胞」が大きな話題になり、あちこちで注目されています。と同時に、受賞者に決まった京都大学iPS細胞研究所長の山中伸弥教授はすっかり時の人となりました。これから生まれてくる子供に「シンヤ」という名前が多くつけられることも予想されますね。tanakasinya_obi.jpg

 というのも今年賞を受け、話題になった「シンヤ」は山中教授だけではないのです。1月に発表された第146回芥川賞を受賞したのが同じ「シンヤ」の田中慎弥さんで、この時も大きな話題となりました。田中さんは受賞後の4月にはパレスサイドビルに本社を置く毎日新聞社から「田中慎弥の掌劇場(1260円)」という本を出しています。

 それにしてもこの二人、まったく対照的な感じがしますね。医学と文学という異なった分野でのことで、大きな違いがあるのは当然でしょうが、山中教授は研究発表から6年というノーベル賞の歴史の中でも異例のスピード受賞。これに対し田中さんは芥川賞候補にノミネートされて5回目でやっと、という待ちに待った受賞でした。受賞が決まった時の会見でも山中教授は「感謝という言葉しかない」と言っていたのに対し、田中さんは「私がもらって当然だと思う」とか「もらっといてやる」などと物議をかもす発言もありました。そして、一方が誠実でさわやかな受け答えだったという印象でしたが、他方は「とっとと終わりましょう」などと、不機嫌そうな態度が話題になりました。

 で、この二人が対談したとしたら...。司会はシンヤつながりでかつてのプロ野球ニュースのキャスターだった佐々木信也さん、プロ野球ニュースと同じ時間帯の午後11時過ぎのスタートという想定で、「伸弥と慎弥が信也の司会で深夜の対談」というのはどうでしょうか?

でも話はかみ合いそうもありませんね。

 国際通貨基金(IMF)・世界銀行年次総会は、9日から14日まで、東京国際フォーラムで開かれています。日本での開催は1964年以来、48年ぶりです。世界経済の安定化に向けて、各国がどう協調していくかが最大のテーマですが、総会とは別に、日本政府展示コーナーがあります。

日本の長い歴史の中で生まれてきた過去の技術製品と対比しつつ、先進的なインフラ技術などを紹介するもので、そこに認定NPO法人・江戸城再建を目指す会が提供した模型「江戸城寛永度天守」(高さ63㎝、底辺45×60㎝)が、法隆寺五重塔、スカイツリーの各模型と共に展示されています。江戸城や五重塔柔構造による免振、制震技術が、現代の代表的な建築物スカイツリーに継承されているというものです。 

江戸城の説明文(原文は英文)には、江戸城 日本の木造建築技術の集大成 1657年の大火で焼失した江戸城天守は、東大寺大仏殿と並ぶ世界最大の木造建築でした。釘や金物を一切使用せずに、木組だけで柱、梁、桁を接合する伝統的な木造建築技術で建てられており、強大な地震エネルギーも接合部がわずかに動くことによって、小さな摩擦熱に変えて吸収してしまいます。地震の力に耐えるのではなく柔構造でいなしかわす、今日の免振の考え方を先取りした建築でした」と書かれています。残念ですが、一般の方は、この展示コーナーに入場できませんので、写真でご紹介します。

 上記のIMF世銀総会に合わせて、今月16日まで開かれている東京駅八重洲地下街センタースポットでのEDO ART EXPO「江戸の美意識」展に、認定NPO法人・江戸城再建を目指す会は、皇居東御苑に遺る天守台を背景とした江戸城天守模型はじめ、たった1枚遺された「縦地割図」から創られた天守復元図、それを基にしたCG画(DVD放映も)などを展示しています。

 折から、10月の東京駅復元とも重なり、全国各地から多くの人が訪れ、「江戸城が再建されたら、日本のシンボルになる」「皇居に天守閣がないのはおかしい、1日も早く再建してほしい」などの声が多数寄せられています。展示では、犬山城、彦根城、松本城、鶴が城などの模型も飾られて、城ファンに喜ばれています。

 

 

 京都大学iPS細胞研究所長の山中伸弥教授がノーベル医学生理学賞を受賞するというニュースは全国を駆け巡り、パレスサイドビルに本社がある毎日新聞はいち早く東京都内のターミナル駅などで号外を配りました。9日の新聞朝刊でも各紙1面で「拒絶反応の少ない再生医療や難病の仕組みの解明などにつながる革新的な功績が評価された」などと絶賛しています。

 「再生」といえば、今日109日は地球再生のための大変な日なのです。と言っても、SFアニメの世界でのことです。

 そう、西崎義展、山本暎一原作、松本零士監督「宇宙戦艦ヤマト」での話。異星人ガミラスの遊星爆弾による攻撃によって放射能汚染され赤くなった地球を救うために、14万8000光年の彼方にある大マゼラン星雲の惑星イスカンダルに向けてヤマトが人類最後の希望を託されて旅立ったのが西暦2199年10月9日だったのです。人類滅亡まで残された期間は1年。イスカンダルの女王スターシャから放射能除去装置「コスモクリーナーD」を取りに来るようにとのメッセージと、超高速航法「ワープ」する波動エンジンの設計図を受けてのことでした。ヤマトはガミラスや宇宙の様々な障害や妨害を乗り越えて宇宙を航行。往復29万6千光年の距離を旅して2200年9月6日に帰還。地球は青さを取り戻していく......というストーリーでした。

 約40年前に作られたアニメで、今から187年後の空想の世界を描いているのですが、昨年の東京電力福島原子力発電所事故被災地の除染があまり進んでいない状況だということを聞くと、早くイスカンダルから「コスモクリーナーD」を持ってきて被災地を再生して欲しいという気になってきます。

  米メジャーのアメリカンリーグ東部地区で、ニューヨークヤンキースが2年連続優勝を果たしました。優勝に貢献したのはシーズン途中にシアトルマリナーズから移籍したイチローですが、もう一人、忘れてはいけないのが、優勝を決める試合で16勝目を記録したベテラン、黒田博樹投手です。

 大阪上宮高校から専修大学、広島カープと歩んでからのメジャーリーグ入りで、ロサンゼルスドジャースで活躍してからヤンキースに移りました。19752月生まれですから、今年37歳と決して若くはありません。

 この黒田、お父さんもプロ野球で活躍しました。長崎県佐世保商業から八幡製鐵所を経て1949年に南海ホークスに入りました。主に外野手として出場し、5153年のパリーグ3連覇に貢献しました。監督は若き鶴岡一人氏です。その後、1954年に結成された高橋ユニオンズに加入しました。

 高橋ユニオンズといっても、プロ野球ファンでもシニア世代しか知らないかもしれません。プロ野球解説でおなじみの佐々木信也さんが新人で参加しました。夏の高校野球で甲子園から初めて深紅の大優勝旗が箱根の山を越えた時の湘南高校のメンバーです。その後、六大学リーグで慶応大学キャプテンとして活躍して、新生の高橋ユニオンズに入りました。

 高橋ユニオンズは川崎球場=写真=を本拠地にしていましたが、弱小チームで観客も動員できず、パシフィックリーグのお荷物といわれていました。57年に大映スターズと合併して大映ユニオンズになり、さらに58年に毎日オリオンズと合併して大毎オリオンズになって、高橋ユニオンズの痕跡は消えてなくなりました。

 毎日オリオンズはパレスサイドビルに入居している毎日新聞社がかつて所有していたパリーグの花形球団です。ヤンキースの地区優勝、黒田の大活躍を機に、なつかしき1950年代に日本プロ野球を回顧してみました。

パレスサイドビルからぶらりと歩いて5分、区立千代田図書館(千代田区九段南1-2-1、区役所9階)で、「ビジネス書大賞」の受賞作展をやっています。

この賞は、関係出版社などで作る実行委員会が2010年から始め、今年で3回目。書店員、書評ブロガー、出版&メディア関係者ら延べ120人の"目利き"が投票して選考しているとか。狭い意味のビジネス書に限らず、「ビジネスパーソンにとって学びや気づきがある本」と広く定義し、実用書から文芸までジャンルを問わないのが特長です。3年間に入賞した約50冊と、ビジネス書評家の土井英司氏オススメの本約50冊に、それぞれ選評やコメントを付けて展示しています=写真は図書館企画チームのfacebookから。

今年の受賞作は、大賞が「僕は君たちに武器を配りたい」(瀧本哲史、講談社)と「スティーブ・ジョブズ 」(ウォルター・アイザックソン、講談社)の2冊。また、「スティーブ・ジョブズ 驚異のイノベーション」(カーマイン・ガロ、日経BP社)が優秀翻訳ビジネス書賞に入りました。1年前に亡くなったアップル創業者、ジョブズ氏の流石の人気。当然でしょう。

ちなみに、歴代大賞は、2010年が「ブラック・スワン」(ナシーム・ニコラス・タレブ、ダイヤモンド社)、2011年が「ストーリーとしての競争戦略楠木建、東洋経済新報社)と「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら岩崎夏海、ダイヤモンド社)でした。

明治時代に福沢諭吉が身分制度に縛られない生き方を示した「学問のすすめ」が、広い意味のビジネス書(啓蒙書)の走りとされます。時代が大きくい変わろうとしている今、良い本に出会うのはいよいよ大事なのでしょうね。

同展示は1027日(土)まで。

 やっとヒガンバナ(彼岸花)が咲き、各地で見ごろになりました。パレスサイドビル前から代官町通りを西に行き、下ったところの左側、立ち止まって歩道から半蔵濠の斜面を見ると燃えるような赤いヒガンバナが一面に咲き誇っています。

 曼珠沙華(マンジュシャゲ)ともいわれるヒガンバナの見ごろを「やっと」と書いたのは、今年は残暑が厳しく暑い日が続いたせいで、どこもヒガンバナの開花が遅れていたからです。いつもなら、9月の中旬ごろから咲き始め、文字通り秋分の日をはさんだお彼岸のころが最盛期になっているのですが、今年は咲き始めたのが9月の最終週で、10月に入って見ごろを迎えたようです。

 200万本の花が咲き、関東地方で有数のヒガンバナの見どころとされる埼玉県日高市の巾着田(きんちゃくだ)曼珠沙華公園の「曼珠沙華まつり」は9月15日から下旬までの予定でしたが、始まった時にはほとんど咲かず、終盤になって咲き始めて今月に入り満開。今は最盛期であたり一面に赤いじゅうたんを敷き詰めたようになり、見ごろだということです。このためまつりも今月8日(月・祭)まで延長することにしたのです。

ただ、日高市役所⇔高麗神社⇔巾着田を結ぶシャトルバスは先月末で終了してしまいました。反面、ヒガンバナの開花中は大変混雑するとの理由でできなかった河原でのバーベキュー・キャンプは6日に解禁となるようで、花とバーベキュウを一緒に楽しめるという思わぬ恩恵に浴せそうです。

ヒガンバナについてはご存じだと思いますが、全草有毒です。このため土中のモグラや虫除けとしていろんなところに植えられたようです。地獄花(ジゴクバナ)、幽霊花(ユウレイバナ)、剃刀花(カミソリバナ)など不吉な異名もあります。また、花びらがスカスカなことからか、毒があるため子供たちに近寄らせないようする思いからか、ハッカケババア(歯欠け婆)とひどい名前で呼んでいる地方もあるようです。一方で曼珠沙華から「天上の花」としてめでたい兆しとされることもあります。いずれにしても美しいヒガンバナは観賞するだけにしておいた方がよさそうです。

  926日の当ブログで紹介した蜷川式胤(にながわ・のりたね、18351882年)。パレスサイドビルの斜め向かいの竹橋門跡の碑の「東京城図」が収められた「江戸城写真帖」を編集した古美術研究家ですが、彼を語るのに、海外への日本文化の発信という功績が欠かせません。

蜷川は「日本の博物館創設に力を尽くした」官僚としての功績もさることながら、個人の研究の成果が「観古図説 陶器之部」第17巻(187680年刊)とされます。著作というより、カタログですが、陶磁器を体系的に分類した日本で最初のもので、日本の焼物の素晴らしさに外国人が関心を抱くきっかけになったようです。

1が、東京・大森貝塚の発見でお馴染みの米国の動物学者、エドワード・シルベスター・モース(18381925年)=写真=との親交です。東大に招かれた「お抱え学者」だったモースは日本の陶器が気に入り、蜷川は彼に陶器の鑑識について教え、1000点以上と推測される古陶器を贈ったり、共に町に出て集めたりしたそうです。モースの影響を受けたボストン界隈の上流階級の人々による募金で、モースが集めた4000点とも5000点ともいわれる日本陶器のコレクションをボストン美術館が買い上げ、「モース日本陶器コレクション」として伝わります。同美術館のホームページで「Morse Collection」を検索すると、朝鮮の焼物なども含め5020件ヒットします(http://www.mfa.org/search/collections?keyword=Morse+Collection&objecttype=14)。モースは、関東大震災で焼けた東大図書館の再建に、12000冊の個人の蔵書を寄贈したことでも有名です。

もう一人、モースほど日本では馴染みがありませんが、ロンドンの大英博物館の日本陶器コレクションを築いたオーガスタス・ウォラストン・フランクス(182697年)も重要です。45年間、同博物館に勤務し、学芸担当部長を務めまたそうですが、蜷川の「観古図説」に影響を受け、2000点以上の日本の焼物を収集し、これが同博物館の3500点に及ぶ日本の焼物コレクションの基礎になりました。フランクスの収集品は、縄文から現代までの幅広い時代にわたりますが、中でも古墳時代の発掘品と江戸初期から中期の磁器、そして江戸後期から明治初期の焼物が充実しているといいます。セインズベリー日本芸術研究所長のニコル・ルマニエール氏によると、蜷川がフランクスに日本の陶器を売却したことを示す記録が残っているそうです。

1920世紀に大英博物館が収集した日本の美術品に関する論文でオックスフォード大学博士号を取得した三笠宮彬子さまが、留学中に現地で話された機会に、モースとフランクスのコレクションを比較、前者は「科学標本としての陶磁器収集」、後者は「古美術収集家としての収集」と指摘されていたと、話を聞いた留学生がブログに書いています。

  太陽光発電が何かと話題になる昨今ですが、やはり気になるのが日照時間です。メガソーラーを、できるだけ晴天率が高くて、日照時間の長いところに設置したいと考えるのは、費用対効果の視点に立てば当たり前の話です。

 それでは、どの県が日本で一番日照時間が長いか、というと、意外や意外、山梨県です。2010年の観測結果によると、年間2183.0時間。全国平均が1897.4時間ですから、平均値を11%以上上回っています。

2位高知県2154.2時間、3位宮崎県2116.1時間、4位群馬県2110.9時間、5位静岡県2099.0時間と続きます。高知、宮崎などさすが南国という感じですね。

 日照時間の少ない県は、1位秋田県1526.0時間、2位青森県1602.7時間、3位富山県1612.1時間、4位山形県1613.3時間、5位福井県1619.4時間という順番で、日本海側の雪国が名を連ねています。

 パレスサイドビルのある東京都は、といいますと、1881.3時間と全国平均をわずかに下回って27位になっています。冬場にほとんど毎日晴天が続く印象がありますが、太陽光発電向きとは言えないようです。逆に大阪は1996.4時間で18位と意外な健闘ぶりです。

ランキングで言うと、下から6番目の新潟県の補助事業として、昭和シェル石油株式会社が「新潟 雪国型メガソーラー発電所」を2010831日に日本初の商業用発電施設として作りました。なぜ日照時間が決して長いとは言えない新潟県かといえば、それは旧製油所跡地の再活用策だったからです。ここではCIS薄型太陽電池を使用して光電変換効率を高める工夫をしています。1000kw(一般住宅300軒分相当)を発電して東北電力を通じて近隣地域へ供給されているということです。

太陽光発電は、スペインや南米など赤道に近い地域の高地乾燥地帯が向いているといわれています。四季があり、梅雨や台風など雨も少なくない日本はやや非効率だと言わざるを得ませんが、科学技術の英知を集めて効率的な発電装置を開発してもらいたいものですね。

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