【2012年8月】のアーカイブ

 あす9月1日は防災の日。89年前の大正121923)年のこの日、約105,000人ともいわれる死者・行方不明者が出た関東大地震が起きたことや、台風の襲来が多いとされる210日(立春から数えて210日目)であることなどから昭和35(1960)年に制定されました。

89年前のこの日、竹橋のパレスサイドビルから皇居をはさんだ南側の日比谷公園前にある帝国ホテルでは、フランク・ロイド・ライトが設計し名建築と言われた石造りの建物(現在の前の建物)=写真=の完成披露宴を開く予定にしていました。しかし、宴会開会の準備をしている最中の午前1158分、地震に襲われたのです。周辺の建物が倒壊するなどした中で、帝国ホテルの建物はほとんど無傷だったそうです。

当時の帝国ホテル支配人、犬丸徹三は大混乱の中で、すぐに披露宴中止を決定し、調理場の火を消すように指示しました。向かいの建物には火が回っていました。犬丸は従業員たちに窓を閉めるよう命じ、さらにバケツ部隊を編成し、ホテル入口にある池から水を汲み、屋根にかけさせました。バケツ部隊は火が出ていた向かいの建物にも水をかけ、ホテルの類焼を食い止めたそうです。道路をはさんだ向かい側の東京電燈会社が黒煙を上げて燃え、帝国ホテルの建物は無事だったという当時の写真も残っています。

ところで、帝国ホテルだけでなくその後91日に開業したホテルは多いようです。ホテルニューオータニ、東京プリンスホテル(昭和39年)、ホテルインターコンチネンタル東京(平成7年)、パークホテル東京(平成15年)、ザ・ペニンシュラ東京(平成19年)......などです。これは偶然なのでしょうか? 節目だからでしょうか? それとも大地震にも耐えた帝国ホテルにあやかってのことでしょうか?

 朝倉文夫(1883~1964年)の続きの話。

早稲田大学の大隈重信像が朝倉作品だと書いたら、「慶応にもあるぞ」という声が聞こえてきました。

と言っても、福沢諭吉像ではありません。慶応大学三田キャンパスの「平和来(へいわ きたる)」=写真㊤=が、塾監局という慶応義塾の中枢の建物の前庭にデーンと据えられています。名前からも想像できるように、戦没した慶応義塾員(学生、卒業生ら)に捧げるもので、132(昭和7)年卒業生有志が、卒業25周年記念として1957年に寄贈したそうです。台座には「丘の上の平和なる日々に 征きて還らぬ人々を思ふ」という小泉信三・元塾長の碑文が刻まれ、また近くに「還らざる学友の碑」も1998年建立されました。

朝倉作品が三田キャンパスにもう1点あります。旧図書館の東側、「文学の丘」に建つ「小山内薫胸像」=写真㊦。築地小劇場を興し日本における新劇の父として知られる小山内は一高、東大出身。その胸像が三田の丘に建つまでの経緯が、慶応義塾のホームページに紹介されています。それによると、1910(明治43)年、慶応の文学科の講師として迎えられたのがそもそもの縁。築地小劇場の発足も、1カ月前、1924(大正13)年520日、慶応大学演劇研究会主催の三田大ホールでの講演が発端となったと書かれています。胸像は、1958(昭和33)年、没後30年を記念して、友人門弟らが朝倉に依頼して作り、1964年に別の場所から三田に移されました。

竹橋から三田キャンパスへは、神保町まで5分歩いて、都営三田線に10分余り揺られた後、歩いて78分です。

  東京といえば銀座、大阪ならキタの新地。その区域の入り口とも言えるのが堂島アバンザというビルです。もともとは毎日新聞大阪本社があった場所です。約20年前に西梅田に本社が移転した後、毎日新聞社と大手保険会社2社の3社共同で建設したオフィス兼商業施設ビルです(1999年竣工)。いわば、毎日新聞東京本社が入居しているパレスサイドビルの弟分です。ジュンク堂大阪本店が入居していて、大阪のランドマークになっています。

 その敷地の庭園内に堂島薬師堂があります。マジックミラーを組み合わせた奇抜な外観で、通行人の目を引きます。もともとは聖徳太子が四天王寺を建設したときに、嵐にあった木材運搬船が流れ着いたところに堂を建てたのが起源だと言い伝えられています。同地は堂島川と曽根崎川に挟まれた中州ですが、薬師堂がある島、という意味から堂島と名付けられたといわれています。

 薬師堂には薬師如来像のほかに、地蔵菩薩像や弘法大師像が安置されています。近所のお年寄りがよくお参りしていますが、お酒を飲みに行く前のサラリーマンの姿も見受けられます。社業の繁栄を祈念しているのか、キタの新地でもてますように、と祈っているのか...。

 大阪キタのパワースポットです。関西にお出かけの折に、ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

小さな緑色の実が紫色に変わってきました。竹橋のパレスサイドビルすぐ南にある皇居東御苑内宮内庁書陵部玄関前に植えられているコムラサキの実です。たわわになり、垂れ下がった房状の実は小さな小さなブドウのようにも見えます。だからというわけではありませんが、鳥はこの実を好んで食べます。

コムラサキといえば紫色に輝く羽が美しい蝶もいますが、花と蝶、同じ名称でも関係はまったくありません。このコムラサキと良く間違われるのがムラサキシキブ(紫式部)ですが、こちらも源氏物語とは関係はなさそうです。ムラサキシキブの方は実がやや大型ですが、バラバラについているので、観賞にはコムラサキの方が好まれるようです。見分け方は実がついている柄と葉っぱの柄が少しずれてついているのがコムラサキ、身がついている柄と葉っぱの柄がほぼ同じところについているのがムラサキシキブです。あと、葉っぱの縁が途中からギザギザになっているのがコムラサキ、根元から先端までギザギザになっているのがムラサキシキブです。sirosikibu.jpg

東御苑ではコムラサキの隣にシロミノコムラサキもあり、実は緑から白に変わっていました。こちらはシロシキブ(白式部)とも呼ばれます。実の色が違うだけでコムラサキとほとんど変わりありません。皇居内で育っているので、ここだけはシロミノコムラサキというより「式部」という女官の呼び名がついたシロシキブとした方がふさわしいですね。

 常盤橋公園(パレスサイドビルから15分)の渋沢栄一の銅像を731日に紹介しましたが、像を制作した朝倉文夫(1883~1964年)=写真㊤=の話を書きます。

1933(昭和8)年に建立された渋沢像は、第2次世界大戦中の金属供出により失われ、昭和30年に再建されたこと、両作品とも朝倉の作であることは書きました。朝倉といえば、有楽町・東京国際フォーラムの大田道灌像や早稲田大学の大隈重信像の作者といえば、うなずく方も多いのでは。

さて、朝倉1907(明治40)年から亡くなるまでの57年間、アトリエ兼自宅とした建物朝倉文夫彫塑館」台東区谷中7丁目、JR日暮里駅から徒歩3分)として朝倉作品の展示館になっています。彼の最高傑作といわれる『墓守』1910年作、高さ約18メートル)=写真㊦もここに収蔵されています。朝倉の生まれ故郷・大分県豊後大野市の「朝倉文夫記念館」、東京国立近代美術館(竹橋)、福岡市美術館、大分県立芸術会館にも『墓守』があると聞いて一瞬、「エッ?」。

ちょっと考えれば当たり前なんですね。釈迦に説法ですが、「彫刻」といっても彼の作品は「彫塑」で、粘土などを盛り付けた粘土原型から石膏原型を作り、それをもとにした型に、溶かしたブロンズを流し込んでブロンズ像に仕上げる技法。大本の石膏原型を彫塑館が保有していて、これだけが国の重要文化財で、他はブロンズ像なのです。

「日本のロダン」と言われる朝倉ですが、文化庁のデータベースによると、『墓守』は、「それまでのロダン彫刻の影響とは異なる客観的な自然主義による作品として、その後の日本における具象彫刻の主流をしめた意義や後進に与えた影響は大きく、わが国初期洋風彫塑が到達した写実主義の一頂点を示す作品」ということです。

朝倉彫塑館は現在、耐震補強工事などのため閉鎖されています。来年3月に再開予定なので、まだ見たことがない『墓守』に会いに行こうと思います。この建物自体が文化財で、大変な工事のようですが、その話は、また後日。

 アジサイ(紫陽花)といえば梅雨のころにうす紫やピンク、水色の花を咲かせ、しっとりした味わいが人気で、各地の紫陽花の名所はどこも大賑わいでした。もう花も落ちてしまって大きな葉っぱが目立っていますが、今咲き始めた紫陽花の仲間もあるのです。

 タマアジサイ(玉紫陽花)。竹橋のパレスサイドビルすぐ南の皇居東御苑、富士見櫓近くの野鳥の島で数株が花を開いていました。小さな花のガクアジサイに似ていますが、つぼみはしっかりした苞(ほう)で包まれ、大きなまん丸の玉のようで、このつぼみの形からその名がついたそうです。つぼみからは「ぽん」という音とともに咲くのではないかと思われ、何か可愛い感じがします。Tamaajisaitubomi.jpg

 別名ギョクダンカ(玉段花)。江戸時代にはこの名前でよばれていたようで、タマアジサイは長崎に来た医師、シーボルトが名付けて初めて世界に公式発表された、という文献もあります。江戸時代にはこのほかギンバイソウ(銀梅草)とかサワフタギ(沢蓋木)と呼ばれていましたが、これらは現在、紫陽花とよく似た別の植物になっています。

 ところで、「紫陽花」という漢字を使ったのは唐の詩人、白居易ですが、白居易は別の花に名づけていました。これを平安時代の学者、源順がこの漢字を誤ってアジサイに当てはめたことによって広まったといわれています。学名はHydrangea(ハイドランゲア)。ギリシャ語で「水の容器」という意味です。紫陽花が水を多く吸い上げることから付いたといわれていますが、アジサイの名は花の色と同様に少しずつ変わっているのですね。

明治初期の都心を撮影した珍しい写真展が開かれています。JCII(日本カメラ財団=元の日本写真機検査協会)のフォトサロン(千代田区一番町250332610300地下鉄半蔵門駅4番出口から1分)が連続開催中の「古写真シリーズ」の21回目で、題して「150年を遡る幻の古写真~下岡蓮杖(しもおか・れんじょう)の世界」。

下岡(18231914年)は、坂本竜馬の肖像を撮った上野彦馬らと並ぶ日本初期の写真家で、今年は下岡が文久21862)年に横浜で写真館を開業してから150年。晩年は写真館の背景画を描くことに専念したため、彼の写真は幕末から明治初期のものばかりとか。

今回展示される70点の中で、"目玉"作品は坂江戸城周辺の六切大写真18点。「SAKASHTA GATE サカシタコモン」=写真㊤・明治4年撮影、「THE AQUEDUCT スイトウハシ」=写真㊦・同=など英語とカタカナ名が焼き込まれています。2006年以降に英国とオーストリアで発見され、JCIIが入手したもので、終戦の年の東京大空襲で、弟子が保管していた原板が焼失してしまったので、現在確認されているのはこの紙焼きしたものだけ。お濠の前で、シジミ貝でも入ったざるを天秤で今にも担がんとする人物や、泳ぐ子供たちが写るなど、「ポーズのつけ方が独特で、どこか日本画の構図を連想させます」(JCIIホームページ=http://www.jcii-cameramuseum.jp/)。

セピア色の写真を眺めながら、パレスサイドビルからも毎日眺める皇居周辺の150年間の変貌に、改めて驚くばかりです。

写真展は92日(日)まで。10:0017:00、月曜休館、無料。825日(土)にトークショーもあります(要電話予約)。

 独活と書いてウド。一人で就職などの活動をすることでも、ドイツで生活することでもありません。春先に八百屋さんの店先に並ぶ山菜のことです。独特の歯ざわりと香り、そしてほのかな苦味は、酢味噌であえて食べると何ともたまらない味わいです。天ぷらにしてもよし、黒くなるまで焼いて皮をむいて味噌をつけて食べる焼きウドにしてもよし、きんぴらにしてもよし、で食感はいかにも春が来たという気になります。

 そのウドがパレスサイドビルすぐ前の皇居東御苑二の丸雑木林で、白い花を咲かせていました。花は今頃咲くのですね。細く長い茎からヒューッと伸びた枝の先にさらに細い枝がいくつもの球形に広がってその先に小さな花がついています。白く小さな千輪花火のようにも見えます。

 風のないのに幹から動いているように見えるため、「うごく」から転じてウドと呼ばれるようになり、「独活」と書くようになったのもこれに由来するといわれているそうです。また、芽が土から盛り上がってくるように出てくるため、土が生きているように見えることから「生土」でウドになったという説もあります。

「ウドの大木」という慣用句があります。大きくなる高さ2mまで伸びますが、茎は柔らかくて弱いため材木にするわけにもいかず、かといって食用にもならないので、図体だけ大きくて役に立たない人のことをさして言います。薬用にもなるウドにとっては何とも迷惑な喩(たとえ)ですよね。キャイ~ン。

  出版社や書店の多い神田・お茶の水ならでは、と思われるホテルが、駿河台の「山の上ホテル」ではないでしょうか。竹橋のパレスサイドビルからも歩いて10分くらいです。

 明治大学のわきの道を登ったところにある同ホテルは、川端康成や、池波正太郎、三島由紀夫たちが定宿としていたことでも知られています。壇一雄が舞台女優の入江杏子と深い関係になり、同ホテルで同棲生活を送っていました。その愛と破局を描いた「火宅の人」は、壇の代表作の一つになっています。映画化された時の緒形拳と原田美枝子のラブシーンが衝撃的でした。

 このクラシックな建物はアメリカのウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計によるもので、1936年に完成しました。戦争中は帝国海軍によって使われていましたが、敗戦のあとは連合国最高司令部(GHQ)によって接収されて陸軍婦人部隊の宿舎として用いられました。

 アメリカの女性軍人たちが「HILLTOP」と呼んでいたところから、接収解除後、ホテルを開業する際に、そのまま「山の上」としたと伝えられています。駿河台の丘の上にふさわしいネーミングですね。東京のクラシックホテルの代表格であり、アール・デコ調の内外装と、都心とは思えない静かな環境は、「瀟洒な」という形容詞がぴったりではないでしょうか。

 てんぷらや中華料理、南欧料理のレストランがあり、おしゃれなバーもあります。大人の隠れたオフタイムにおすすめです。

 パレスサイドビル界隈を歩く「ぶらパレス」シリーズ。明治時代、数多くの民間企業を興した渋沢栄一の話に戻ります。

 第一国立銀行と並び、渋沢が設立に関わった"大物"が株式引所です。竹橋から地下鉄東西線で3つ目の茅場町駅を降りた兜町にある東京証券取引所の前身です。

明治新政府は新国家建設などのため公債を発行しました。最初は両替商を中心に現在の人形町付近で公債の集団売買が行われていましたが、株式会社制度が定着していくのに伴い、株式売買も行われるようになっていくと取引所設立の機運が高まり、政府は1878(明治11)5月、株式取引所条例を制定。渋沢や、三井物産初代社主を務めた三井財閥の有力者、三井養之助(高明)らが取引所の設立を出願し、大蔵卿大隈重信の免許を受けました。ここに「東京株式取引所」が誕生し、6月1日営業を開始しました。ちなみに、当時の渋沢邸は取引所のすぐ向かいにあったそうです。

戦時中に他の10取引所と統合して日本証券取引所になり、終戦間際からの戦火による取引停止、終戦後はGHQ(占領軍総司令部)命令による解散を経て、1949年に東京証券取引所として復活を果たしました。

兜町は取引所を中心に証券会社が集積し、周辺に立地した三井財閥などの大企業を含め、ビジネスセンターとして日本資本主義の中枢を担ってきたのです。

 現在の東証の本館の建物=写真=は1988年竣工で、これより前、84年暮れ、取引が行われる「市場館」が先に完成しました。871019日のブラックマンデー(世界的な株価大暴落)を経て年が改まると株価は急回復に転じ、景気の拡大と金融緩和を背景にバブル相場が形成されていきました。そんな時代でしたから、完成当時の建物は、とてもバブリーに見えたものです。

 ヨーロッパ最高峰は標高4810.9mのモンブラン。フランスとイタリアの国境にあり、モン(mont)は「山」、ブラン(blanc)は「白い」で、「白い山」というのは皆さんご存じの通りです。1786年に水晶取りのジャック・パルマとミシェル・パカールによって初登頂されています。現在は年間2万人が登っています。熟練登山者にとってはそれほど厳しい山ではなく、専門のガイドに先導されてのツアーもあります。

 登山基地の町はフランス側のシャモニーがあまりにも有名です。中心地の広場には、「いざっ、モンブランへ」と意気込むパルマとパカールの銅像が立っています。シャモニーにはスキーリゾートとして多くの観光客が訪れています。1924年には記念すべき第1回冬季オリンピックが開催されています。いうなれば冬季オリンピック発祥の地でもあります。

 シャモニーから眺めると、広くゆったりしたモンブランの山容と好対照に、エギューユ・デュ・ミディが見えます。エギューユは「針」も意味で、まさに尖った針の峰々が連なっています。

 世界一過酷なレースといわれるツール・ド・モンブランもシャモニーがスタート地点であり、ゴール地点でもあります。このレースはモンブランを周回する175㌔を走るというもので、コースはフランス、イタリア、スイスの3カ国にまたがっています。日本からも多くの参加者がいるようです。

 モンブランやマッターホルンを眺望するツアーが数多くあります。パレスサイドビル地下1階の毎日旅行に行けば、パンフレットが用意されています。

 今年も大きな花が見事に咲き誇っています。パレスサイドビルのすぐ南側、皇居東御苑内本丸休憩所東側に植えられた「はるかのひまわり」。約50輪の黄色い花が、猛暑を吹き飛ばすような頑張りで太陽に顔を向けていました。

 「はるかのひまわり」は17年前の阪神淡路大震災で犠牲になった加藤はるかちゃん(当時小学校6年生)の「命」の連鎖を紡いでゆこうと育てられ、伝えられてきたものです。

 神戸市東灘区の自宅1階で寝ていたはるかちゃんは、阪神淡路大震災の大きな揺れで崩れ落ちた2階部分の下敷きとなり短い命を閉じました。そして半年後の夏、はるかちゃんの家があった空き地に一輪のひまわりが咲き、近所の人たちを驚かせました。動物好きだったはるかちゃんが、隣の家のオウムの餌としてあげるひまわりの種が力強く育ったのです。その後、空地にはたくさんのひまわりが咲き、地域の人たちは、震災からの復興とはるかちゃんをはじめ亡くなった人たちの供養の思いを込めて「はるかのひまわり」と名付け、育てて採取した種を全国に配布しています。昨年は東日本大震災の被災した各地にも種が伝わり、大きな花を咲かせました。

 東御苑の「はるかのひまわり」は、平成171月、阪神淡路大震災の10周年追悼式典で、遺族代表の小学生から天皇皇后両陛下に贈られた種を、両陛下が御所で育て、採れた種を休憩所東側にも播いて育ったものです。

 夏休み、箱根に行ってきました。いまさらですが、都内から2、3時間の距離に、温泉、そしてさまざまな美術館などお楽しみスポット満載で、ホント、東京人は良いリゾート地を近くに持っているんだと思います。

今回、まず行ったのが箱根ガラスの森美術館。「アドリア海の雫~煌(きら)めくヴェネチアン・ビーズ展」(毎日新聞社など主催)が開かれていました。ルネッサンス期に地中海貿易を独占し、栄華を誇ったヴェネチア。そのムラーノ島から、秘技を駆使して生み出されたヴェネチアン・ビーズを用いたロザリオ、バッグ、アクセサリーなど100余点が展示され、見事でした。写真㊤は今回の代表的展示作「ランプワークによるネックレスとイヤリング」(1838年制作)。つややかな真珠層のガラスを加工した、ピンク色の大玉ビーズには、海から眺めるヴェネチアのランドマークともいえるドゥカーレ宮殿やサンマルコ広場の眺望が精密に刻まれている逸品。制作者の職人ジョバンニ・バッティスタ・フランキーニは、作品の評判を聞いた時の支配者、オーストリア皇帝の熱望に応えず、作品を島のガラス美術館に寄贈したという反骨の逸話も残るそうです。同展は1125日まで。入場料は大人1300円、大高生1100円、小中生800円。

温泉なら家族で終日楽しめるユネッサンが定番の一つ。大小さまざまな温水プール、風呂がこれでもかと、あります。若者や子供にはスライーダープール=写真㊦=が人気です。

箱根といえば小田急のロマンスカー。これが地下鉄千代田線に乗り入れたので、箱根と都心が直結しています。竹橋の隣、大手町駅から、平日は956分発、休日は913分発と1443分発の箱根湯本行きがあります(所要時間約2時間)。帰りは、休日遅い時間なら箱根湯本174分発。日曜に泊まって翌朝帰る手もあります。526分に箱根湯本から箱根登山鉄道に乗り、小田原で小田急線に乗り継いで、本厚木628分発のロマンスカーで大手町には725分に到着、そのまま出勤可能です。ちょっとハードですが、日曜の泊まりは割安だから、狙い目かも。

 4月はダイヤモンド、7月はルビーなど、すべての月に誕生石というものがあります。それと同じように、すべての月に誕生花(たんじょうか)があります。そして365日のすべての日にも誕生花は決められています。誰がそんなことを決めたのかって? それは言い伝えによるものと、売りたい側に人たちの思惑ではないでしょうか。

 いま暑い盛りの8月、誕生花はトルコキキョウです。花言葉は優美、永遠の愛。ちなみに1月はチューリップ(愛の告白、門出)、2月はスイトピー(恋の愉しみ、永遠の喜び)、3月はカーネーション(愛、情熱、尊敬)、4月はユリ(上品、無邪気、高貴)、5月はバラ(愛、恋の吐息、美、幸福)、6月はヒマワリ(憧れ、崇拝、熱愛)、7月はムーンダスト(永遠の幸福)、9月はサンダーソニア(純粋の愛、祈り、祝福)、10月はガーベラ(崇高な愛、希望、神秘)、11月はアリストロメリア(憧れ、幸福な日々)、12月はグロリオサ(華麗、栄光、情熱)ということになっています。

 1365日の誕生花をお知りになりたい方は、いや、ご自分や家族の誕生日の花を知りたい方はhttp://ja.wikipedia.などで調べてみてください。

パレスサイドビルのお花屋さんで買って、ご主人や奥様の誕生日にプレゼントされてみてはいかがですか?

 ロンドン五輪はアスリートたちが、連日熱い戦いを繰り広げ世界中を沸かせて日本時間で13日、幕を閉じました。毎日深夜から未明にかけてのテレビ中継に釘づけになり、日本選手らの活躍に一喜一憂。おかげで寝不足になった人も多かったのでは? 興奮の深夜・未明も13日限りで、後はぐっすり眠れるようになりそうですが、14日の未明も一部の人は眠れないかもしれません。

 というのも、全国のほとんどの地域で金星が月に隠れる「金星食」が観測できるからです。パレスサイドビル屋上からもよく見られるはずですが、残念ながらこの時間帯の屋上開放はありませんので自宅か、どこかいい場所を選んで観測してください。

国立天文台によりますと、今回の金星食は潜入から出現までずっと暗い空の中で起こるという観測するうえでは大変条件の良い天体ショーなのだそうです。その前の比較的条件が良かった金星食は1989年12月2日の夕方で、23年ぶりになります。次に比較的条件の良い金星食が起こるのは2063年5月31日で、51年後になるそうで、天体観測ファンにとっては、このチャンスは絶対に逃せないものでしょう。

 東京地方では、14日午前2時44分に、金星は細い月の光っている下側から隠れ(潜入)、同3時29分に月の暗い側から現れる(出現)そうです。

金星は地球からは大きく見える星で、潜入前は月の下にぽつんと雫が落ちる瞬間のように見えます。潜入は1分以上かけて徐々に月の向こう側に隠れていき、肉眼でも徐々に暗くなって消えていくように見え、出現時も徐々に月の向こう側から姿を現すそうです。

気になるのは天候。東京地方の14日未明の予報はあいにく曇になっています。雲の状態がどうなるのかわかりませんが、ひょっとしたら雲の間から見えるかもしれません。オリンピックでは外国選手でしたが、この日は自然が相手。またまたハラハラしそうですね。

 パレスサイドビル近くの北の丸公園、清水門から上がって吉田茂像のわきの園地に赤いムクゲの花がいくつも咲いています。南国の花ハイビスカスの仲間で、暑さに強いのですね。漢字で書くと木槿。これを音読みした「もくきん」からムクゲになったといわれています。
朝早くに咲き、夕方にはしぼんでしまい、小林一茶が「それがしも 其の日暮らしぞ 花木槿」と詠んだように、花の命のはかない「一日花」と思われていますが、翌朝にはしぼんだ花が再び咲き2~3日は咲くようです。また、アサガオのように一つの花が咲き終わっても次から次に別の花が咲くため長い間楽しめる植物としても知られています。山上憶良が秋の七草で呼んだ「朝貌」(あさがお)はこのムクゲのことを指すという説もありますが、こちらはキキョウとするのが一般的です。
 乾燥させたムクゲの樹皮は木槿皮といい中国から伝わった漢方薬の史料である本草綱目で水虫に効くとされています。細かく刻んだ木槿皮をホワイトリカーに漬け込んで3~6か月後に塗るといいようです。これを読んで試したくなる人もいるのでは?一般的には解熱、解毒、かゆみに効き目があるそうです。
 ムクゲは大変強い木で枝を切って地面にさしておくと根づくといい、韓国では国の繁栄を意味する花として国花になっています。
今日はロンドン五輪男子サッカーで、日本対韓国の3位決定戦。花のすごさでは日本の国花、サクラの方がムクゲより上?強さではムクゲかな? サクラが勝つかムクゲが勝つか興味津津です。

 6日に続き三井財閥の話。パレスサイドビルから地下鉄で大手町乗り換え、半蔵門線・三越前駅の真ん前というか真上に三井本館(中央区日本橋室町)があります。

 この界隈は丸の内の「三菱村」に対比して「三井村」ともいわれます。三井財閥の発展とともに、三井各社を本拠地の日本橋へ集約する構想が持ち上がり、1902(明治35)年、日本初の鉄骨構造物として三井本館(旧三井本館)が竣工。ところが23(大正12)年に関東大震災が発生し、躯体は無事だったものの、近隣の火災が類焼して内部を焼失してしまい、29(昭和4)年に建替えられたのが現在の三井本館です。かつては三井財閥の本拠として三井合名会社(持ち株会社)と"御三家"の三井銀行、三井物産、三井鉱山の本店・本社などが入りました。

 ここは三井財閥総帥だった團琢磨暗殺(323月、血盟団事件)の現場になり、戦後はGHQ(連合国軍総司令部)に一部を接収されたことでも知られ、98年に国の重要文化財に指定されています。

 戦中戦後の一時期、三井銀行と第一銀行が合併して「帝国銀行」となったのは、設立時の因果でしょうか。1948年に第一銀行と帝国銀行に再分割、54年に帝銀は三井銀行に戻りました。その後はバブル崩壊と金融再編の荒波にもまれ、第一銀行がなくなったように、三井銀行も太陽神戸三井銀行、さくら銀行と名を変え、今はライバルに半ば飲み込まれ三井住友銀行になっています。

 同様に三井グループの一翼を担った三井信託銀行は、1924(大正13)年にわが国最初の信託会社として設立され、戦後信託銀行になりましたが、20004月に中央三井信託銀行になり、20114月には住友信託銀行と経営統合し、20124月から三井住友信託銀行になっています。

 三井本館の隣に2005年、三井系企業が多く入居するランドマーク「日本橋三井タワー」が竣工し、周囲の様相も変わり。三井本館には現在、三井不動産本社や両銀行の支店などが入っています。銀行名の変遷に対応し、外壁に掲げられる大きな金文字も変化しています=写真㊤は現在、写真㊦3枚は過去のもの

 約1.2mの高さの枝先に集まって咲いた小さな白い花。オトコエシ。パレスサイドビルすぐ前の皇居東御苑の二の丸雑木林の中で1株だけ生えて、花が咲いているのを見つけました。

 漢字で書くと男郎花。秋の七草の一つで女郎花と書くオミナエシ=写真下=によく似ていますが、花の色はオミナエシが黄色なのに対してオトコエシは白。茎や葉はオミナエシより大きく、毛が多くて強壮な感じがするのでやっぱり、「男」とした方が良いかもしれません。

 白い花が白米にも似ており、オミナエシの黄色い花を粟に見立てて、古い時代に白米を男性が食べ、粟を女性が食べるものとしていたことから、白い花を付ける方を男飯(おとこめし)、黄色い方を女飯(おみなめし)と呼びこれがなまってその名がついたという説もあります。女性がominaesi.jpgしいたげられていた時代を感じさせるような命名ですが、オミナエシが秋の七草にもあげられ、万葉集をはじめ歌や俳句によく詠まれたり、生け花にも使われるなどして古くから親しまれているのに対し、オトコエシはあまり馴染みがないようで、人気度では「女」の方に軍配が上がります。両方ともオミナエシ科なので、草花の分類上は"女系家族"なのでしょう。

  白壁の町、倉敷の美観地区。季節を問わず観光客の足が途絶えません。赤レンガの織物工場跡やツタの絡まるティーラウンジ、緑の並木に囲まれた掘割...。若い女性グループやシニアご夫婦などがタイムスリップしたような街並みを堪能しています。

 もともとは地理的な条件もあって交易が盛んな商業の町でしたが、明治時代中期から紡績業が栄えるとともに、児島地区、水島地区、玉島地区などで重工業が盛んになりました。倉敷紡績の創業者、大原孫三郎が画家の児島虎次郎に依頼した美術品の収集が、のちの大原美術館のもとになり、美観地区の中核の一つになっています。商業の町、工業の町だった倉敷は、いつの間にか観光の町、アートの町に変身していきました。

 NHKの朝ドラ「カーネーション」の撮影が行われた美観地区では、世界でたった一つのマイ・キャンドルをつくったり、科学センターでプラネタリウムの星空にうっとりしたりと、若いカップルや家族連れにも楽しめるメニュー満載です。掘割のほとりに佇んでいると、「カーネーション」のヒロイン糸子の元気な声が聞こえてくるような気もします。

 東京からの旅ということになると、神戸と組み合わせての新幹線旅行でもいいですし、四国の高松や松山と組み合わせて、行きは新幹線、帰りは飛行機というのもいいかもしれません。

 パレスサイドビル地下1階の毎日新聞旅行で相談されてはいかがですか?

パレスサイドビル界隈を歩く「ぶらパレス」シリーズ。前回、渋沢栄一と第一銀行の話を書きましたが、三井財閥との関係は微妙な面もあったようです。

三井は銀行設立を目指していたのですが、大蔵省官僚だった渋沢に反対され、国立銀行の前身として、別の財閥だった小野組(後に破たん)との合作による三井小野組合銀行をまず作り、国策に協力した経緯があります。

三井で金融部門を仕切っていたのが三野村利左衛門=写真㊤=で、1873(明治6)年の第一国立銀行創設に伴い、自ら「支配人」に就いても自前の銀行設立をあきらめず、小野組倒産を機に第一国立銀行から手を引き、767月に日本初の民間銀行である三井銀行の開業を果たします。

三井広報委員会のサイトの「三井の歴史」コーナー(http://www.mitsuipr.com/history/index.html)に渋沢と三野村のエピソードが紹介されています。一つが「バンク」の「銀行」という訳語。「金行」という渋沢の提案に、三野村が「交換(取り扱い)には銀も含む」と答え、「銀行」となったといいます。また、第一銀行の建物は三井が自前の銀行のために準備していた「海運橋三井組ハウス」を譲り受けたのは前回紹介した通りですが、三野村は総工費(約47000両)の倍額以上で譲り、新たに三井銀行のため建設した「駿河町為換バンク三井組ハウス」=写真㊦の右奥=は「タダでできたようなもの」と一笑したそうです。

その三野村は幼少時代、諸国を流浪し、文盲に近かったところから出発した苦労人で、鋭い洞察力と組織をまとめる力がある人物だったといいます。幕末期、三井(当時は豪商として知られていた越後屋=呉服業)は相次ぐ飢饉や天災に加え、幕府の御用金(臨時の強制寄付)に苦しんでいました。三井の筆頭番頭・斎藤専蔵が、長州征伐のために三井に課された150両の減免の交渉役にスカウトしたのが、両替店を営んでいた三野村でした。三野村は50万両へ減額、さらに18万両まで下げさせることに成功した功績で、44歳にして三井に採用され、後に「三井の大番頭」にまで上り詰めたのでした。

彼は銀行開業を見届けるように翌77年、57歳で病没しました。渋沢は彼を「無学の偉人」と称えたそうです。

ロンドン五輪では日本女子サッカーチームの「なでしこジャパン」の活躍に大きな期待がかかっていますが、パレスサイドビルすぐ前にある皇居東御苑内二の丸休憩所前では秋の七草の一つ、ナデシコ(撫子)がこの暑さにも負けずに頑張って、可憐なピンクの花を咲かせています。ガーデニングなどでは人気があり、すっかりお馴染みでそれほど珍しいわけではありませんが、野草の中で彩りを添えてくれているのを見ると、何かうれしい気持ちになってきます。

 東御苑に咲いているのは正式にはカワラナデシコ。ヤマトナデシコともただナデシコとも呼ばれている種類です。夏から秋にかけて長く咲くことから古くはトコナツ(常夏)とも言われていました。撫子はわが子を撫でるようにかわいい花であることからついたともいわれています。英語でピンクというとナデシコを指すそうです。

日本では昔から多くの人に愛されていたようで、日本書紀には奇稲田姫(くしなだひめ)が「撫子」の呼び名を持っていたとなっていました。姉たちは次々とヤマタノオロチに食べられてしまい、奇稲田姫も食べられそうになったところに須佐之男命が現れてヤマタノオロチを退治し、二人は結ばれるという話になっています。また、清少納言は枕草子で「絵に描くと劣るもの、撫子、菖蒲、桜。物語で愛でたしと言っている男女の容姿」と記しています。絵にするよりそのまま鑑賞した方が良いと言っているようです。

ロンドンの現地時間で、今日3日は「なでしこジャパン」が準々決勝でブラジルと対戦します。清少納言流に言うと、なでしこのジャパンの録画映像よりも生で応援する方が良いということになるのでしょうが、なかなかそう簡単にはいきませんよね。

 パレスサイドビル界隈を歩く「ぶらパレス」シリーズの渋沢栄一=写真㊤=の続きです。

明治時代、多数の民間企業を設立し、「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢の、経済人としてのスタートが第一銀行です。

明治新政府で新しい国づくりに関わり、1873(明治6)年に大蔵省を辞職。官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行創設とともに総監役に就任。2年後には頭取になり、以来、企業の創設・育成に力を注ぎました。

第一銀行は三井財閥系などの組合銀行をルーツとする日本初の株式会社で、82年の日銀開業まで紙幣の発券が認められていました。96年に普通銀行の第一銀行に改組され、戦中戦後の帝国銀行(帝銀)時代を経て第一銀行に戻り、71年に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行、さらに2000年の富士銀行、日本興業銀行との統合を経て、みずほ銀行になっています。

第一銀行が設立された場所が、竹橋から東西線で3駅目の茅場町下車、中央区日本橋兜町4-3。永代通りから少し北東方向に入った、東京証券取引所に近い金融街の一角です。現在は「兜町ビル」といい、みずほ銀行兜町支店が入ります。第一銀行創立当時、三井財閥の「三井組為替方」があった「海運橋三井組ハウス」を譲り受けた壮麗な和洋折衷の5階建て姿で、現ビル南側外壁に往時の建物を描いた「銀行発祥の地」のプレート写真㊦がはめ込まれています。

ちなみに、第一国立銀行創設の7年前、横浜の外人居留地に香港上海銀行(現HSBCグループ)の支店が設けられていて、「銀行業務発祥の地」と銘打った記念碑が2006年、HSBCによって建立されました。「業務」というところがミソですね。でも、英語の表記は「Memorial Commemorating Japan's Oldest Bank」(日本最古の銀行の記念碑)で、20066月のHSBCのニュースリリースも「日本における銀行発祥の地として記念碑を建立」となっていて、「業務」の文字は有りません。横浜の人にとっては、ここが「銀行発祥の地」なのでしょうね。

 パレスサイドビル1階、正面玄関脇のオープンスペースの大理石壁の前に大きなパネルボードが出され、ATMコーナーや正面受付前を通る人、喫煙ルームに出入りする人たちの目を引いています。毎日新聞社などが主催する「中国王朝の至宝」展の案内ボードです。

同展は10月10日(水)から12月24日(月・休)までの予定で、東京・上野公園の東京国立博物館平成館で開かれます。約170点の展示品は中国国内の約30か所の博物館などから集めたもので、うち60%が中国の国宝である一級文物に指定されているそうです。これだけ素晴らしい中国の宝物が一堂に会するのはこれまでなかったことです。

また、すべて土の中から掘り出されたものであるというのも大きな特徴で、中国で最も古い王朝といわれる殷と夏王朝をはじめ各時代で中国に存在した二つの王朝の文物を対比させて展示するというユニーク趣向を取り入れています。

2008年に発見され、古代インドのアショカ王が八万四千の仏塔を造立したという故事にちなんだ「阿育王塔」のうちでも規格外の大きさを誇るものが海外初公開として特別出品されます。また、ひざまずいて弩(いしゆみ)を構える姿のイケメン兵馬俑も大きな話題を呼びそうです。

今日から主要プレイガイドなどで前売り券(一般1300円、大学生1200円、高校生700円)が発売となりましたが、今月中なら2人で2000円になる「早割ペアチケット」や3種類のオリジナル中国茶とセットになったプレミアムチケット(1850円、限定1000セット)もあります。中国文化に興味がある方は是非どうぞ。

竹橋ガイド

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