毎日ビルディング07
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1877(明治10)年から関東大震災までパレスサイドビルの場所にあった文部省の写真。『日本名勝旧蹟産業写真帖(国定小学校教科書準拠)』より(国立国会図書館ホームページ)。東京・竹橋 歴史絵巻江戸時代前期~現代 江戸城中のドラマといえば『忠臣蔵』の刃傷事件が有名。事件を起こした浅野内匠頭は、江戸城の裏門でもあった、パレスサイドビル向かいの平川門から城外に出されたそうです。 実は江戸時代、こんな刃傷 1923年の関東大震災は竹橋周辺にも大きな被害をもたらし、パレスサイドビルの場所にあった文部省も、移転を余儀なくされました。しかし、その跡地には、奇跡的に一本のいちょうの木が生き残ったのです。 一面の焼け野原に残ったこの木は人々の希望となり、〝復興のシンボル〞として気象庁前に移植されました。現在も「震災いちょう」として大切に保存され、竹橋の地を見守っています。1868年1912年1926年1989年江戸から東京へ。いつの時代も歴史の中心舞台となってきた竹橋には、その面影が随所に残ります。かつて多くの偉人たちが闊歩した、この地の今昔を巡ってみましょう。明治時代昭和時代平成時代江戸時代世直し大明神も平川門から城外に?年表は『新選日本史B』(尾藤正英ほか著 東京書籍株式会社 2004年)をもとに作成羽田空港に到着したザ・ビートルズ。ここから首都高速道路を使い都心部へと向かった。いきいきと葉をつける震災いちょう。お堀沿いを歩く人々の憩いの場所でもある。竹橋陣営の時計塔は昭和時代はじめまで使われた。写真は大正時代頃の絵葉書に残された姿(「まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室」提供)。『神田大明神御祭図』(部分)(国立国会図書館ホームページ)。神田祭の行列は田安門から江戸城に入り、将軍が上覧した後、竹橋へ向かった。国貞『仮名手本忠臣蔵』(部分)(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館所蔵)。江戸時代から歌舞伎の題材としても人気を博した『忠臣蔵』の上演を描いたもの。石崎融思『大田南畝肖像』(部分)(個人蔵)。近年になり発見された、江戸時代後期に描かれた肖像画。長谷川雪旦『滝沢馬琴肖像並古稀自祝之題詠』(部分)(早稲田大学図書館特別資料室所蔵)。優秀な幕臣として、竹橋門内の奉行所施設にも勤務。狂歌の名人として知られ、蜀山人などのペンネームで江戸の文壇をリードしました。19歳で著した狂詩集『寝惚先生文集』に平賀源内が序文を寄せるなど、若くしてその才能を現しました。竹橋周辺ゆかりの文化人大田 南畝 (1749-1823)滝沢 馬琴(1767-1848)九段坂下に住んだ戯作者で、代表作は『南総里見八犬伝』。晩年は失明しながらも、口述筆記で創作を続けました。『近世名士写真 其2』より(国立国会図書館ホームページ)。森 有礼(1847-1889)イギリス、アメリカに留学し、欧米思想の啓蒙に尽力。初代文部大臣として、パレスサイドビルの建つ場所にあった文部省に勤務しました。『鷗外森林太郎』より(国立国会図書館ホームページ)。森 鷗外(1862-1922)軍医を務める傍ら文壇でも大活躍。1917年から1922年まで、竹橋周辺を通り、皇居東御苑内にあった「図書寮」に勤めていました。「西周哲学著作集」より(国立国会図書館ホームページ)。西 周(1829-1897)啓蒙思想家で、「フィロソフィア」を「哲学」と訳した人物です。幕末には一ツ橋の開成所で教鞭をとり、維新後には竹橋の文部省などに勤務しました。 平川門は江戸時代、大奥の女性の通用門として「お局門」とも呼ばれました。篤姫の嫁入り行列が江戸城に入ったのも平川門。先頭が到着したとき、最後尾はまだ渋谷にいるほどの大行列だったそうです。他にも、大奥御年寄・絵島ら幾人ものヒロインたちもこの場所を通り、それぞれのドラマを歩いていったのです。 明治時代初期の竹橋・一ツ橋付近には、東京大学や東京外国語大学の前身となった開成学校がありました。当時、この学校のアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが生徒に野球を教え、アメリカ人チームと試合をした記録も残っています。一説にはこれが日本野球の始まりとされ、開成学校の跡地(現学士会館)には「日本野球発祥の地」の碑が建っています。篤姫もパレスサイドビル前の地を通ってお輿入れした東京一目新図(部分)(国際日本文化研究センター所蔵)1897(明治30)年頃の東京・竹橋。ISO9001認証取得「原始~江戸時代初期」編は5月31日に掲載しました事件が9件も起こったといわれています。1784年には、旗本・佐野政言が田沼意次の息子、田沼意知に斬りつけた事件がありました。政言は切腹となるものの、賄賂政治で悪名高い田沼を斬ったことで、江戸の人々に「世直し大明神」とたたえられたそうです。この世直し大明神も、平川門から城外に出されたのかもしれません。駐車料金30分ごとに300円保存されている版木と、現在でもその版木から刷られている『群書類従』(社団法人温故学会提供)。tokyo-takebashi history竹橋界隈を練り歩いた「天下祭」の行列 竹橋から江戸城を眺めると、ひときわ目を引く美しい松。この松の木を植え始めたのは、八代将軍吉宗だと伝えられています。それまでの江戸城は白い塀に囲まれていましたが、敷地が広すぎて修繕費用だけでも大変なもの。そこで改革家・吉宗は塀を取り払い、かわりに松を植えて経費を節約したのだそうです。 明治時代初期、現在パレスサイドビルのある場所に、日本初の国立女学校「東京女学校(通称・竹橋女学校)」が開校。廃校後は文部省となり、維新後の近代教育をリードし続けました。 周辺に目を移すと、東京 明治維新のどさくさで行方不明となっていた『群書類従』の版木が、1909年、パレスサイドビルの場所にあった文部省の土蔵で、数十年 1951年、現在のパレスサイドビルの場所に米雑誌社リーダーズ・ダイジェスト東京支社が建ちました。戦後初のモダニズム建築であるこの社屋には、彫刻家イサム・ノグチ設計の日本庭園があ パレスサイドビルには、地下2~4階に300台を収容できる駐車場があります。年中無休の24時間営業、全自動精算システムで入出庫もスムーズ。首都高速出入口(一ツ橋、北の丸、代官町、神田橋)にも近く、ビルへの来館はもちろん、周辺施設を訪れる際にも便利にご利用いただけます。駅直結のビルなので、ここを拠点に地下鉄で移動するのもおすすめです。24時間営業、300台収容の地下駐車場を完備歴史と文化に彩られる 都心の一角にひときわ存在感を放つパレスサイドビルは、ビジネス拠点に最適な好立地に位置しながら、周囲を皇居や北の丸公園の美しい自然に囲まれています。かつて江戸の中心地として栄えた周辺エリアには歴史の面影が随所に残り、美術館などの文化施設も充実。その環境は、豊かな自然と文化に恵まれています。 また、このビルは「日本のモダニズム建築20選」にも選ばれた極めて完成度の高い大規模複合ビル。その歴史的価値を維持する一方、通信インフラの整備などリニューアルを積極的に行い、優れた機能性を有するオフィスビルとして高い評価を受けています。激動の時代を駆けた歴史舞台「竹橋」日本野球発祥の地 現在の北の丸公園には、1871年にヨーロッパ建築を取り込んだ「竹橋陣営」が建てられ、天皇を守る近衛師団が駐屯しました。竹橋陣営の時計塔は、東京でも初めて作られたものとして知られ、絵画の題材に学芸員高木 知己氏〈監修〉千代田区立四番町歴史民俗資料館テナント募集中東京メトロ竹橋駅直結 パレスサイドビル江戸城の景観は吉宗のおかげ!?重要文化財『群書類従』(塙保己一)の版木が奇跡的に発見されたイサム・ノグチが竹橋に日本庭園を作った大正時代東京で最初の時計塔が竹橋にあった 高度成長期の竹橋エリアに、日本を代表するモダニズム建築が相次いで生まれました。東京オリンピックの開催された1964年には北の丸公園に日本武道館が完成。地下鉄東西線・竹橋駅が開業した1966年には、林昌二設計のパレスサイドビルが竣工しました。斬新な姿が美しいこの2つの建築物をはじめ、竹橋周辺には見ごたえのある建築が多く残されています。 伝説のロックバンド、ザ・ビートルズが1966年の夏、来日しました。来日公演の会場となったのは、オリンピック会場として建てられ、今なお日本武道の振興に寄与している日本武道館。公演の行われた3日間、竹橋周辺には大勢のファンが詰めかけ、延べ約3万5千人の警備員・機動隊が出動するほどの熱気に包まれました。武道館発で日本中が沸いたザ・ビートルズ公演竹橋の美しいモダニズム建築快適な都心のオフィス竹橋は文教地区。日本初の国立女学校が開校もの時を経て奇跡的に発見されました。『群書類従』とは江戸時代の全盲の大学者、塙保己一が日本の古書籍をまとめた666冊、3万4千ページを超えるシリーズで、これにより多くの古典が失われずに残されたのです。 全盲をものともしない塙保己一の偉業は遠くヨーロッパにも伝わり、三重苦をり、皇居の緑と調和して、竹橋に美しい景観を生んでいました。跡地に建つパレスサイドビルはその心を屋上庭園として受け継ぎ、一角にはイサム・ノグチの使った庭石も残されています。もなりました。 また、1910年にできた近衛師団司令部の赤レンガの庁舎は、現在は「東京国立近代美術館工芸館」となり、瀟洒な姿を竹橋エリアに残しています。田安門都営新宿線清水門靖国通り大手門科学技術館北の丸公園皇居東御苑竹橋駅九段下駅神保町駅東京メトロ東西線白山通り一ツ橋出口北の丸出口代官町出口竹橋周辺MAP天守閣跡本丸跡震災いちょう平川門竹橋門跡竹橋陣営跡乾門日本武道館日本野球発祥の地1872年~1877年東京(竹橋)女学校1877年~1923年文部省1924年~1944年東京外国語学校1951年~1964年リーダーズ・ダイジェスト東京支社ほか東京国立近代美術館工芸館パレスサイドビル屋上に残る、イサム・ノグチの使った庭石。大学や東京外国語大学、一橋大学なども発祥。明治の新しい価値観のもと女子教育も盛んでした。明治の竹橋エリアは一大文教地区として、日本の発展を担う優秀な若者たちを育てていたのです。 数ある江戸の祭りの中で、「天下祭」と呼ばれたのが神田明神の神田祭と、日枝神社の山王祭。この2つの祭りの行列は江戸城に入ることを許され、乾門付近にあった「上覧所」から、将軍も見物したといいます。将軍の見物が終わると、行列は竹橋を渡り、現在のパレスサイドビル前を練り歩きました。この2つの天下祭は1681年以降隔年で開催され、今なお受け継がれています。竹橋復興のシンボル「震災いちょう」論功行賞への不満が引き金になった「竹橋事件」 竹橋に駐屯した近衛砲兵大隊の兵士による日本軍初の反乱「竹橋事件」が起きたのは、1878年8月23日の夜のこと。前年の西南戦争で活躍したにもかかわらず褒美が遅れていたことなどに不満がつのり、天皇に直訴しようと行動を起こしました。兵士たちは赤坂仮皇居や大蔵省まで取り囲みましたが、結果、一晩で鎮圧。一説では、公衆便所での立ち話を聞かれ、あちこちに計画が漏れていたともいわれています。乗り越えたヘレン・ケラーも塙保己一を深く尊敬していました。現在、この版木は国の重要文化財に指定され、塙保己一の記念機関、温故学会(渋谷区)に厳重に保管されています。

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