毎日ビルディング06
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東京・竹橋 歴史絵巻原始~江戸時代初期千代田区立四番町歴史民俗資料館 学芸員高木 知己氏〈監修〉千代田区立四番町歴史民俗資料館歴史に選ばれた地「竹橋」周辺 竹橋そばの東京国立近代美術館遺跡では、約15000年前の旧石器時代の生活の跡が発掘されました。氷河期の厳しい環境に耐え、この地で生活していた人々がいたのです。また、縄文時代の生活の跡も、皇居東御苑内の旧本丸西710年794年1185年1333年1336年1573年1603年皇居の森を望む竹橋周辺は、古くから有力者が拠点を構え、現代に至るまで数々の歴史の舞台となった地。今も、そこかしこに残るさまざまな時代の面影をたどってみましょう。鎌倉時代建武の新政平安時代原始時代奈良時代室町時代南北朝時代戦国時代安土桃山時代江戸時代939年、平将門は朝廷と対立し、関東に独立国の建国を目指しました(承平・天慶の乱)。この戦いに敗れ、命を落とした将門の首は京都に運ばれますが、3日後、空に飛び立ち故郷に舞い戻ったといわれます。竹橋の周辺エリアには、この首を祭ったとされる将門塚をはじめ、将門を祭る築土神社、神田神社(神田明神)などがあり、歴史好きの方には興味深い散策エリアとなっています。新たな時代を切り開こうとした平将門 竹橋エリアは日本の歴史の重要な舞台となってきました。平安時代、朝廷から関東に派遣された国司(行政官)の子孫が各地に広がり、桓武平氏の流れをくむことから「坂東八平氏」と呼ばれました。その中の秩父重継がこの地に住みつき、姓を江戸氏と改め平安時代の終わりごろ、武士として初めてここに館を築きました。 江戸氏の後、江戸城を築いたのが太田道灌です。道灌の没後は上杉氏が江戸城に入り、次に小田原の北条氏が取って代わります。16世紀末に豊臣秀吉が関東に攻めてきて、その際に江戸城も陥落して荒廃したといわれます。 その後、関八州に国替えされた徳川家康が入城。ここで天下取りの勢力を蓄えました。 さて、江戸時代の竹橋周辺に目を向けると、多くの有力大名が屋敷を構え、現在のパレスサイドビルが建つ場所には幕府の食生活を支える「御舂屋(おつきや)」がありました。このような重要な施設があったことは、ここが非常に重要な機能を担ったことをうかがわせます。また、数ある関東の城の中から家康が江戸城を本拠地に選んだのも、この地が江戸湊を背景に流通の拠点として栄えていたことが大きかったと考えられます。旧石器人も歩いていた竹橋界隈「防人歌」に残る荏原郡の人々の心情江戸城を拠点に連戦連勝の太田道灌 1457年、この地に「江戸城」を築城したのが太田道灌。道灌は主家・扇谷上杉家の勢力を急成長させた名将で、築城の名人でもありました。道灌はこの江戸城を拠点に合戦に連勝し、26歳からの30年間、激動の生涯を送りました。 道灌の時代の江戸城一帯はすでに海運の一大中心地で、諸国の文物が集まっていたそうです。現在、パレスサイドビルの向かい側には「太田道灌公追慕之碑」が設けられ往時を偲ばせています。 1590年、徳川家康が江戸城に入城しました。家康は江戸城周辺の大規模な工事を行い、天下取りの拠点として着々と準備を進めます。竹橋エリアでは、一ツ橋の建設、平川の付け替え工事などが行われ、城下町が整えられました。 1603年に徳川幕府を開くと、家康は全国の大名を動員し、「天下普請」と呼ばれる数十年に及ぶ大工事を開始。伊達政宗、加藤清正ら東西の築城の名人を 1657年、江戸は3日にわたって町を焼き尽くす猛火に襲われます。「供養のため火に投じた振袖から燃え移った」という伝説から、俗に「振袖火事」と呼ばれる明暦の大火です。この火事は江戸城の天守閣が焼失するほどの大火となり、竹橋周辺の大名屋敷の多くも焼けてしまったようです。 明暦の大火は大きな被害をもたらしましたが、同時に、新しい町づくりのきっかけとなりました。 竹橋周辺でも一ツ橋二丁目に延焼を防ぐ空き地が設置されるなど、防災の意識が高まりました。江戸城内でも、北の丸公園付近にあった御三家の屋敷を移転し、延焼防止の場を設けたそうです。 現在の北の丸公園周辺には、三代将軍家光の弟・徳川忠長、春日局、天樹院(千姫)など将軍家ゆかりの人物が屋敷を構えました。「御三卿」といわれる名家「田安家」「清水家」が興されたのもここ北の丸です。 竹橋周辺にも、将軍になる前の徳川綱吉が住んだ「神田御殿」がありました。また、一ツ橋二丁目では甘縄藩松平家の屋敷跡が発掘され、庭園の池の跡や中国製の茶道具などが出土しています。その後も周辺には御三卿の「一橋家」をはじめ、有力大名の屋敷が数多く建ち、一説には天璋院(篤姫)も一ツ橋の屋敷で晩年を過ごしたといわれています。 1670年ごろまでに、現在パレスサイドビルがある場所には「御舂屋」と呼ばれる施設が設けられ、以後幕末まで続きました。これは、江戸城内で使われる米穀の精米所と倉庫を兼ねたような場所。裏手には船着場が設けられ、穀物のほか塩や魚、木炭など各地の産物が運び込まれました。御舂屋は、江戸城内の生活を支える重要な施設だったのです。 華やかな女の舞台として知られる「大奥」は、将軍の奥方を中心に数千人の女性が暮らした世界。時に政治にまで影響を及ぼし、中でも三代将軍家光の乳母お福は「大奥総取締役」として権勢を振るい、1629年、朝廷から「春日局」の称号を授かりました。 その春日局があるとき息子・稲葉正勝の屋敷を訪ね、つい長居をしてしまいました。大奥女中の通用門である平川門(現・パレスサイドビル向かい側)に着いた頃 古代、朝廷は九州北部に「防人」という警備の兵を配置し、唐の襲来に備えていました。防人の多くは関東から徴集された人々で、竹橋周辺の住民も多く含まれています。北の丸公園付近を通っていた東海道は、彼らが九州へと旅立っていった道でした。 故郷を遠く離れて任務に就いた防人たち、そして残された家族は、その気持ちを飾らない和歌に詠み上げました。竹橋周辺を含む「荏原郡」出身の人々も、こうした「防人歌」を何首も残し、切実な心情を今に伝えています。太田道灌公追慕之碑(一ツ橋一丁目)。道灌没後450年を記念して作られた碑。江戸城の石垣の礎石が使われている。8世紀の防人の一般的な服装太田道灌像(朝倉文夫作)七人影武者将門像(神田神社所蔵)。将門には七人の影武者がいたと伝えられる。将門塚(大手町一丁目)。怨霊となった将門の祟りを鎮めるため、供養として塚が設けられた。伊達政宗画像(仙台市博物館所蔵)。仙台藩主・伊達政宗は竹橋門や平川門、大手門などの築造で中心的な役割を担った。年表は『新選日本史B』(尾藤正英ほか著 東京書籍株式会社 2004年)をもとに作成江戸図屏風(国立歴史民俗博物館所蔵)に描かれた駿河大納言・徳川忠長の屋敷(右側)。忠長は、のちに兄・家光との確執から自刃に追い込まれた現在の竹橋は関東大震災後に建てられ、1993年に改修されたもの草枕旅行く夫が丸寝せば家なる我は紐解かず寝む椋橋部刀自売くらはしべ とじめ パレスサイドビルには、地下2~4階に300台を収容できる駐車場があります。年中無休の24時間営業、全自動精算システムで入出庫もスムーズ。首都高速出入口(一ツ橋、北の丸、代官町、神田橋)にも近く、ビルへの来館はもちろん、周辺施設を訪れる際にも便利にご利用いただけます。駅直結のビルなので、ここを拠点に地下鉄で移動するのもおすすめです。300台収容の地下駐車場を完備駐車料金30分ごとに300円四季折々の美しい自然が彩る豊かな歴史と文化に囲まれた充実のオフィス 都心の一角にひときわ存在感を放つパレスサイドビルは、ビジネス拠点に最適な好立地に位置しながら、周囲を皇居や北の丸公園の美しい自然に囲まれています。かつて江戸の中心地として栄えた周辺エリアには歴史の面影が随所に残り、美術館などの文化施設も充実。その環境は、豊かな自然と文化に恵まれテナント募集中竹橋駅直結 パレスサイドビルISO9001認証取得ています。 また、このビルは「日本のモダニズム建築20選」にも選ばれた極めて完成度の高い大規模複合ビル。その歴史的価値を維持する一方、通信インフラの整備などリニューアルを積極的に行い、高い機能性を有するオフィスビルとして高い評価を受けています。田安門都営新宿線清水門靖国通り大手門日本武道館科学技術館北の丸公園皇居東御苑竹橋駅九段下駅神保町駅東京メトロ東西線白山通り一ツ橋出口北の丸出口代官町出口妻物部歳徳もののべ としとこ夫白玉を手に取り持ちて見るのすも家なる妹をまた見てもむや天守閣復元模型 (兵庫県立歴史博物館所蔵)明暦江戸大絵図(財団法人三井文庫所蔵)江戸時代の地図は、建物の入口方向を頭にして文字が書かれています「竹橋」の語源には、はじめは竹で編んだ橋が架かっていたので「竹橋」の名が付いたという説や、小田原北条家の家臣・在竹家の屋敷が近くにあったため「在竹橋」といったのが始まりである、という説があります。東京・竹橋地名の由来竹 橋には、暮れ六つ(午後6時)の門限を過ぎ、城内に入れてもらえなかったそうです。絶大な力を誇った春日局も規則には勝てず、門の前で明け六つ(午前6時)の開門を待ったとも、許可が出るまでの2時間、夜風のなか立ち往生したともいわれています。春日局之像(文京区提供)家康が江戸に入府した頃、外堀(日本橋川)に大きな一本の丸木を渡して橋としたことから「一ツ橋」の名が付きました。一ツ橋将軍の胃袋も満たした御舂屋(おつきや)防災への教訓を胸に復興した竹橋一帯はじめ、諸大名の分担によって城門や石垣などが築かれました。 こうして竹橋門や平川門、清水門などが次々に完成し、現在の姿に近い竹橋エリアが姿を現したのです。tokyo-takebashi history貝塚で発見されています。貝塚を残した人々は、竹橋周辺まで広がっていた海で海産物を獲ったり、動物の狩りをして、知恵を絞って暮らしていました。 太古の人々がここで見ていた風景に思いをはせてみるのも楽しいものです。北の丸・竹橋に集結した、将軍家ゆかりの御殿竹橋エリアの景色を築いた天下人・家康幕府がこの坂に沿って石段を築き、役人のための屋敷を設けました。その石段が9層に達したことから九段の名前が生まれました。九段坂現在の北の丸公園には、江戸時代初期、関東総奉行内藤清成など勘定方の役人の屋敷が集まっていたので「代官町」と呼ばれました。代官町竹橋から東京国立近代美術館の前を上がる坂。俗に、紀伊徳川家の屋敷が近くにあったことが名前の由来とされています。紀伊国坂竹橋周辺MAP天守閣跡九段坂本丸跡将門塚御舂屋跡一ツ橋二丁目遺跡一ツ橋平川門太田道灌公追慕之碑築土神社紀伊国坂東京国立近代美術館遺跡パレスサイドビル向かいの場で夜を明かした? 春日局せないもたまなわ明暦の大火の様子を記録した『むさしあぶみ』(『日本随筆大成 第3期6』吉川弘文館。東京都立中央図書館所蔵)

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